歌舞伎、能、文楽など伝統芸能に見いだされる“日本なるもの”をノンフィクション作家・上原善広氏が浮き彫りにするシリーズ「日本の芸能を旅する」。今回紹介する猿回しの村崎太郎氏が、日光猿軍団について語る。上原氏が村崎氏に迫った。
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猿回しの村崎太郎といえば「反省」の芸でヒットし、長く「太郎・次郎」のコンビでやってきた。それが閉園した「日光猿軍団」の跡を継ぐことになったというニュースは、テレビや新聞などで大きく報道されたから、知っている人も多いだろう。
当初、村崎と「日光猿軍団」は、敵対関係にあった。警察沙汰も辞さないほどの苛烈な部落解放の運動家だった村崎の父、義正も型破りなら、「猿軍団」を立ち上げた間中敏雄も型破りだ。
彼は路地(同和地区)の者たちが継承してきた門外不出の猿回し芸を、買い取った猿に独学で調教、それまで一人一匹が基本だった猿回しに、「団体芸」を取り入れた。これは実は、一人対一匹による高度な芸ができないことから出た苦肉の策だったが、これが爆発的な人気を得るようになる。
間中は、「猿軍団」を立ち上げる前、猿の調教方法を教えてくれるよう、村崎の元に頼みに行っている。しかし当時、人気の絶頂期にあった村崎はそれを拒否した。以来、二人は敵対するようになる。村崎はこう話す。
「日光猿軍団ができてから二、三年目くらいに一度、見に行ったことがあるんですが、そのときは息子さんがホウキ持って『何しに来たッ』て険悪な感じでね。間中さんも渋々、会うっていう感じでした。そのとき『親父から教えられたけど、成功したときほど危ないですよ』とだけ伝えましたが、それっきりです」
この父の言葉は、村崎自身にも、呪文のようにのしかかる。離婚や破産からうつにもなり、死の誘惑が常につきまとうようになる。
「どん底を見ました。一〇代で猿回しをはじめて、二〇代で人気が出て怖いものなし。そう思っていたら、そこから怖いものが出てきた(笑)。三〇代後半から四〇代くらいに歯車が狂ってきて、もう四〇代後半にはやめてしまおうと思ったこともあった」
フジテレビの名物プロデューサーとの結婚など、話題には事欠かなかったが、芸と事業では失敗続きだった。
「前に上原さんと会った頃からかな。もう一度、メジャーに返り咲きたいと思ったんです」
今から五年ほど前、二〇一〇年頃に、雑誌のインタビューで私は、初めて村崎に会っている。そのときの村崎は、髪を茶色に染めて金色の腕時計をして、業界人っぽい派手な格好をしていたが、何となく自信がないようにも見えた。今思えば、その頃はどん底の時代だったわけだが、そこまで悪かったようには見えなかった。しかし、本当にどん底にいる人は、他の人にそう悟られないようにするものだ。