現在大盛況の大相撲夏場所。今では外国人力士が大活躍している。
特に、逸ノ城はもちろん、白鵬や朝青龍など今や、最大勢力となっているモンゴル人力士の活躍には、“先人たちの苦労と努力”があった。モンゴルから力士が最初に日本へやってきたのは、1992年2月のこと。旭天鵬(40才)や、後の旭鷲山ら6人の若者たちが、揃って大島部屋へ入門した。
「相撲の世界のしきたりがあまりに特殊でビックリしちゃった。実は、日本にきて半年で集団逃亡したんですよ」
懐かしそうに笑いながら若かりし頃を振り返るのは、友綱部屋の旭天鵬だ。
「1990年、社会主義国家だったモンゴルは民主主義に変わりました。それまで配給制だった食べ物がストップするなど、国民全体に不安が広がっていたんです。そんな時に父親が日本で相撲力士を募集しているとテレビで知ったらしく、『おまえ、身長も体重も年齢も、条件にピッタリじゃないか。受けてみろ!』と勧めてきたんです。それで受けたら、受かってしまった。当時、ぼくは17才でした」
大島親方(元・旭國)が相撲取りとしての素質を見込んでスカウト。だが当の本人はというと、初めての海外渡航に心を躍らせ、修学旅行気分での来日だったという。
それもそのはず、当時のモンゴルでは、外交官などでもない限り海外渡航はできなかった。若干17才の少年が有頂天になるのも当然のことだった。さらにインターネットも今ほど進んでいなかったため、海外の情報はほとんど国内に入ってこなかった。
「社会主義国家の頃は、日本は下駄を履いて刀を差す、サムライの国だと思っていました。でも民主主義になってテレビを見たら、ビルやネオン街があるすごい国だと知りました」
一行は北京経由で来日。相撲どころか“外の世界”に慣れていない少年たちを少しだけ安心させたのは、大好物の「肉」だった。しかし、そうした歓待ぶりが、他の弟子たちの反感を買ってしまった。
「最初に食べたのは、たしか、ハンバーグだったかな。モンゴルでは魚や生ものを食べる習慣がなかったので、親方が気を使ってくれて部屋でもぼくたちモンゴル人だけには特別に肉を食べさせてくれました。
だけどそれは、他の弟子たちからしてみたら、おもしろくないですよね。それが土俵での“かわいがり(シゴキ)”につながるなんて、当時は想像もつきませんでした。
言葉がわからないから、怖い顔で叱られても、怒られて叩かれても理由がわからない。逆に、笑顔で褒められても、何で自分が褒められているのかわからないんです。これの繰り返しでは、心が折れるよね。稽古がしんどくても、それを伝えることすらできない」
※女性セブン2015年7月30日・8月6日号