40才になっても現役力士として最前線で活躍する旭天鵬。彼は、1992年にモンゴルから他5人の仲間たちとともに来日した。そして、揃って大島部屋に入門する。
毎日の稽古の後に夜9時から1時間、おかみさんも一緒に日本語を勉強し、言葉の壁を乗り越えようとした。言葉をだんだん覚え、日本での生活に慣れていくにつれて、見えてきたのはつらい現実だった。
当時、大島部屋には20人くらいの弟子がいて、なかには100kgを超える立派な体格の持ち主もいた。しかし、彼らは8年、10年と稽古を続けても関取にはなれない。85kgしかなかった旭天鵬は、そんな先輩弟子たちの姿を見て、「あんなに立派な体格の彼らでもなれないなら、自分には無理かもしれない」と思うようになった。
「日本に来てから、大阪(3 月場所)から始まって東京(5 月場所)、名古屋(7 月場所)と日本の3つの大都市に行けたし、親方が息抜きにとディズニーランドにも連れて行ってくれた。“そこそこ観光もできたし、もう、みんなで国に帰ろっか”と、なって集団逃亡してしまいました」(旭天鵬、以下「」内同)
1992年8月、目覚ましを深夜にセットして夜逃げを決行。「まだ契約を果たしてない」と冷静だった旭天山を除く5人で抜け出し、渋谷のモンゴル大使館へと駆け込んだ。それは逃亡防止で入門時に親方からパスポートを取り上げられていた彼らの唯一の“逃亡手段”だった。
親方の説得で旭鷲山、旭鷹は部屋へ戻ったが、旭天鵬と旭雪山、旭獅子の意思は揺るがず、8月に帰国。親方はそれでもあきらめきれず、10月にモンゴルを訪れ、旭天鵬を説得した。
「親方から『絶対に強くなる。素質がある。なんとか帰ってきてくれないか』と言われて、胸が熱くなった。それと、そのとき親方は日本に残った2人を一緒に連れて来ていて、彼らは家族と堂々と楽しそうに食事をしている。ぼくは逃げてきたから、下を向いてうつむいていた。2人の姿がまぶしく見えました。父の励ましもあって、もう一度相撲を続けようと決心しました」
※女性セブン2015年7月30日・8月6日号