名古屋場所が幕を閉じたが、初日から満員御礼の今場所でも活躍したのは外国人力士だ。遠い外国の地からやってきて孤軍奮闘する“相撲レスラー”たちが「白星」を勝ちとるまでには、さまざまな苦労があった。
モンゴル人初の力士・旭天鵬(40才)は、言葉がわからないために、叱られても、褒められても意味がわからず心が折れ、他のモンゴル力士たちと集団逃亡の後、帰国。モンゴルを訪れた親方の説得により、もう一度相撲を続ける決心をする。
今度こそ、「我慢できる自信があった」と言うが、“脱走者”を待っていたのは甘くない現実だった。部屋に戻った旭天鵬を弟子たちは全員で無視した。そんなつらい目に遭いながらも、今度こそと歯をくいしばり、稽古に集中。次第に、部屋のみんなが認めてくれるようになり、部屋頭の旭道山関が焼肉へ連れて行ってくれたことで「ようやく許してもらえた」と言う。常に一歩前を走るモンゴル力士の先輩・旭鷲山の存在も励みになった。
「目標を立てては、クリアして進んできました。三段目に上がれば雪駄がはける、幕下になればコートを着て博多帯が巻ける。番傘もさせる。白い稽古まわしの十両までもう少しだ、って。旭鷲山が十両で勝ち越すのを見て、ぼくも十両になれると信じて努力をしていたら、実際に勝ち越した。親方とモンゴルに来た時にも“戻ってこいよ!”と声をかけてくれて、ありがたい存在でしたね」
相撲道にまい進することで心身ともに磨かれ、芽生えてきたのは「相撲が好き、日本が好き」という気持ち。2005年6月、30才のとき、日本国籍の取得を決断した。
「その頃は32~33才で辞めるのが一般的で、親方として大好きな相撲にずっとかかわっていくためには帰化するしかなかった。それがルールだからね。ぼくはただ出稼ぎにきたわけではない。日本と相撲が大好きだと、示したかったんです」
帰化したいと相談すると両親は、「お前の人生だ」と背中を押してくれたが、その胸中は複雑だったのだと言う。
「両親はとても悩んだと、後で聞きました。ぼくが自分の息子でなくなると思ったみたい。ネットが広まっていた時期で、いろいろ書かれました。親に仕送りをしたり、自動車や家を買っていたりしたから、“旭天鵬の親は子供を日本に売ってお金を儲けてる”って。日本人に帰化したモンゴル人力士は初めてだったから、批判が半端なかった。日本にいたぼくはOKだったけど、親はつらかったでしょうね…」
※女性セブン2015年7月30日・8月6日号