安倍政権が掲げる、「集団的自衛権の行使容認」などの動きは、日本を“戦争ができる国”にしようとしているのではないか──。国民の多くが不安になっているなか、力強く「平和」を願い続ける天皇陛下のお言葉を改めて顧みたい。
「この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました」(2013年12月18日/80才の誕生日会見)
「沖縄の問題は、日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております」(1996年12月19日/63才の誕生日会見)
第二次世界大戦後、天皇は国家権力を持たず、日本国と日本国民の“象徴”となった。天皇の政治的行為は一切禁止され政治に関する言動を慎んでこられた。それにもかかわらず、陛下のお言葉からは、今の社会情勢や平和に対する強いメッセージが浮かび上がってくる。なぜ、私たちの胸にそのお言葉が響くのだろうか。
そうした陛下のお言葉を綴った『戦争をしない国』(小学館刊)を6月に上梓した著者の矢部宏治さんは「明仁天皇の言葉をたどることは、すなわち日本の戦後70年を振り返ること」だと話す。
「明仁天皇はわずか11才で終戦を迎えました。そして、翌1946年、GHQは昭和天皇の誕生日である4月29日に東京裁判でA級戦犯を起訴し、2年後の12月23日に7名を処刑したわけですが、その日は明仁天皇の15才の誕生日だったのです。これは偶然ではなく、明らかにGHQが意図的に行ったものでした」(矢部さん・以下「」内同)
当時、すでにイタリアやハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなどヨーロッパの敗戦国の王室は全て廃止されていた。そうしたなか、日本にだけ皇室が残されたことの意味を考え続けられた70年だったのではないかと矢部さんは言う。
「10代前半という最も多感な年齢で、“敗戦”という大事件に遭遇し、その後、皇太子として日本の復興を担うことになった明仁天皇は、今日まで、敗戦について、日本国憲法について、象徴天皇の在り方について、想像を絶するほどの思索を重ねてこられたのではないでしょうか」
陛下は、1949年、15才の春に学習院高等科の英語の授業で、「将来、何になりたいかを書きなさい」という問いに、「I shall be Emperor(私は必ず天皇になります)」と答えた。そして、その真意を、1987年に「普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」と説明した。陛下は、15才ですでに、この国の復興が自分の肩にかかっているということを、強く感じておられたのではないだろうか。
※女性セブン2015年7月30日・8月6日号