名門・横浜高で1年生からエースに君臨。3年時の1980年夏の甲子園大会では、決勝戦でアイドル投手として人気を得ていた早実の荒木大輔に投げ勝ち優勝する。その栄光の陰には、今だから語られる壮絶な経験があった。エースとして横浜高校を優勝に導き、プロ入り後は野手として活躍した愛甲猛氏が、当時の横浜高校の野球部の厳しさを振り返る。
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「悪ガキ」と呼ばれ始めたのは中学時代。悪事といわれるものはこの頃にほとんどやった。女性関係も派手にやっていた。とにかく年上の女性から人気があったからね。
でもこんな俺が甲子園に出場できたのは、横浜高に行ったからだと思っている。横浜に進学したきっかけは、中3の時の横須賀大会だ。主審が偶然、渡辺元智監督(当時は部長)の知り合いで、夏休みにセレクションを受けることになり一発合格した。当時は当たり前だった特待生で入学金も授業料も免除。
実は逗子開成と鎌倉学園も候補に挙がっていたが、横浜が全寮制なのに対して他は通学制。通学ではそれまでの生活が改まらず、甲子園に出場できていたかは疑問だ。横浜入学で俺の人生が変わったと思っている。
横浜での生活は地獄だった。朝から晩までずっと走りっぱなし。シゴキのような練習が毎日続いた。あまりの練習のキツさに、ある部員は練習を休むために自分の足にわざと鉄アレイを落として骨折した。