江川卓や松坂大輔、斎藤佑樹など、高校野球史上に輝く名投手たちが挑んで達することができなかったのが、徳島商業の板東英二が持つ大会通算83奪三振の金字塔だ。1958年の夏の甲子園準々決勝、徳島商(徳島)vs魚津(富山)戦は、板東と村椿輝雄の両エースが一歩も譲らず、延長18回を終えても0-0で大会史上初の引き分けに。翌日の再試合で完投勝利を収め、決勝まで進んだ板東氏が“伝説の夏”を振り返る。
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魚津との試合は実はそんなにしんどくなかったんです。浜風が吹いて涼しかったし、何より練習では絶対に飲めない水が飲めるから嬉しかった。ただ記者は「疲れた」という言葉が欲しかったんでしょうね。試合後の取材で聞かれたが、僕は正直に「いや」と答え、「記者の皆さんこそお疲れ様でした」と気遣った。そうしたら「板東は生意気だ」と一気にヒール(悪役)にされてしまったんです。
それから僕が三振を取っても球場は「シーン」ですわ。反対に相手の村椿(輝雄)がゴロでアウトを取ると「ウワァー」と沸く。またこの2人の関係が、対照的でよくできているんです。速球派の僕と、打たせて取る村椿。ムラツバキって名前も綺麗でしょう。こっちはバンドウって盗賊の親分みたいな名前ですからね。
それに村椿はチェンジになると、ボールをプレートの上にそっと置いて、ダーッとベンチまで走って帰る。爽やか、マナーがいいといわれた。対する僕は三振を取ったら歩いて帰るし、2死で外野フライが上がったらもうベンチに歩き始めていた。これも生意気や、といわれた。
でもいわせてもらうと、これは僕のせいじゃないんです。監督から「お前しかピッチャーがいないから走って帰ってくるな」といわれていたんですよ。体力温存。だって僕が倒れたらピッチャーがいなくなっちゃうんですから。結局、甲子園で拍手を受けたのは2回だけでした。入場行進の時と、準優勝で表彰される時ですね。
再試合に勝って進んだ決勝ではクタクタでした。それまで連投に次ぐ連投で全試合完投でしたからね(54回80奪三振)。実は試合前に、監督からいつも「力みを取る」という理由で300球投げてから球場に行き、直前のブルペンでも100球投げるよう命じられていた。あんなことしてなかったらラクに優勝していたと思うんですが(笑い)。
■板東英二(ばんどう・えいじ)/1940年、満州国生まれ。徳島商3年時にエースとして甲子園に出場、決勝に進出するが柳井(山口)に敗れ準優勝。中日に入団、引退後はタレントとして活躍。
※週刊ポスト2015年8月14日号