ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、ジャイアント馬場のトレードマーク十六文キックに続く必殺技、32文ドロップキック(32文ロケットとも言う)の開発秘話を明かす。
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ジャイアント馬場は、昭和38年の『第5回ワールド大リーグ戦』に初出場。1年8か月間のアメリカ武者修行の旅を終えて帰国した馬場は、このリーグ戦からリングネームを本名の馬場正平からジャイアント馬場に正式に改名した。
プロ野球では昭和40年、読売ジャイアンツのV9がスタート。馬場はこの年、すでにトレードマークとなっていた十六文キックにつづく必殺技として“32文ドロップキック”を開発した。
この“32文ドロップキック”が初公開された日についてはふたつの説がある。ひとつめの説は、昭和40年1月8日、馬場&豊登&吉村道明対リッパー・コリンズ&ドン・ダフィー&ソルダット・ゴーキーの6人タッグマッチで、ゴーキーを相手に放ったというもの。
もうひとつの説は、同年3月26日、リキ・スポーツ・パレスで行なわれた“8人バトルロイヤル”の試合中、D.ダフィーを相手に決めたというもの。
いずれにしても、昭和40年の『新春国際試合』シリーズ(1月4日~4月2日=全19戦)のどこかで馬場がドロップキックを初公開したことは確かだろう。
身長2メートル9センチ、体重145キロ(当時)の馬場が空を飛んだので、駅売りのスポーツ新聞各紙は、このリキ・パレスの試合を写真入りで大きく報じた。
馬場にドロップキックを教えた“恩人”についても、ロサンゼルス在住の空手家、ジョージ土門だとする説と、馬場のアメリカ修行中のツアー仲間だったペドロ・モラレスだとするふたつの説がある。
■斎藤文彦(さいとう・ふみひこ)/1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了。コラムニスト、プロレス・ライター。専修大学などで非常勤講師を務める。『みんなのプロレス』『ボーイズはボーイズ──とっておきのプロレスリング・コラム』など著作多数。
※週刊ポスト2015年8月14日号