1992年夏の甲子園大会、“怪物”と呼ばれた星稜(石川)の4番・松井秀喜に対し、明徳義塾(高知)が選択したのは「全打席敬遠」だった。満員のスタンドからメガホンが投げ込まれ、「帰れコール」の雨。試合後も騒動は収まらず、宿舎には抗議の電話が殺到した。その時、マウンドに立っていたのが河野和洋氏だ。河野氏が当時を振り返る。
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ブーイングという言葉をあの試合で初めて知りました。ただ、敬遠は馬淵(史郎)監督が勝つためにやった作戦で、私たちは指示に従った。ルール内ですから別に恥じることはないと思っています。当時は5万5000人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね(苦笑)。
私は背番号8。リリーフで投げていましたが、本職は外野手でした。試合の3日前に監督から呼び出され、「星稜戦の先発はお前で行く。松井は相手にしないからな」と告げられた。「わかりました」と返事したものの、「相手にしない」の意味がよくわかっていませんでした。
試合前、今度は私と捕手が監督から呼ばれて「松井を敬遠するが捕手は座ったまま。あくまでもストライクが入らないという演技をしろ。首でも傾げておけばいい」と具体的な作戦を授けられました。敬遠のサインは監督が指を4本立てるという簡単なものでした。
1打席目(初回)は2死三塁の場面だったので、敬遠気味の四球でも違和感なし。2打席目(3回)も1死二、三塁で問題はなかったが、1死一塁で迎えた3打席目(5回)あたりからはバレバレになった。スタンドからは「またか、勝負しろ」の怒号が飛び交い、「勝負」「勝負」の催促が沸き起こりました。
ベンチ横でピッチング練習をしていると、ネットに顔を押し付けたおっさんに「お前死にたいんか、ぶっ殺すぞ!」と凄まれた。この時は本当に怖かった。4打席目、2死走者なしで歩かせた時もブーイングは凄かったが、最終回の5打席目に2死三塁で歩かせてピークに達した。スタンドからメガホン、帽子、ビールの空き缶などが投げ込まれ、試合が中断。星稜の部員が回収に走り、異様な緊張感が球場全体に張りつめました。
監督も5回も敬遠することになるとは思っていなかったはずです。3点差なら勝負の選択もありましたが、本塁打1本で同点の場面。1発がある松井を歩かせる作戦は間違っていなかったと思いますが、ファンは許せなかったんでしょう。
●河野和洋(こうの・かずひろ):1974年、高知県生まれ。明徳義塾高3年時に甲子園に出場、松井秀喜を5回連続敬遠したことで話題となる。専修大を経て、現在は社会人野球「千葉熱血Making」監督。
※週刊ポスト2015年8月14日号