今年も夏の甲子園大会が始まったが、もうその舞台で名将の姿を見ることはない──。神奈川県大会決勝で東海大相模に敗れ、勇退した横浜高校の渡辺元智(わたなべ・もとのり)監督(70)である。自身の選手時代は甲子園出場の夢が叶わず、神奈川大学在籍時には肩を故障し、野球自体を諦めざるを得なくなった。
しかし、1968年に監督就任すると、春夏通算5度の甲子園優勝を成し遂げ、永川英植(ヤクルト)、中田良弘(阪神)、愛甲猛(ロッテほか)、鈴木尚典(横浜など)、多村仁志(横浜)、松坂大輔(ソフトバンク)、筒香嘉智(横浜DeNA)など57人ものプロ選手を輩出した。高校野球界屈指の指導者だった。
若い頃は24時間ぶっ続けで練習させたこともあるほどのスパルタ式だったが、同時に選手との対話を大事にした。素行がよくなかった愛甲が一度、野球部から姿を消すと、懸命の説得で呼び戻し、自分の家で共同生活を送らせた。当時の渡辺監督は、みずからの家で選手とともに過ごすことも珍しくなく、まさに24時間を高校野球に捧げていた人物だった。生徒も、渡辺監督のスパルタは愛情だと受け止めていた。スポーツライターが話す。
「横浜高校出身で、近鉄、巨人で11年間のプロ生活を過ごし、のちに長嶋茂雄監督時代に一軍バッテリーコーチも務めた佐野元国は、父親がギリシャ人だったこともあり、入団当初の名前は佐野・デーブ・クリストで、登録名は『佐野クリスト』でした。
1982年、日本に帰化したタイミングで『佐野元国』に改名したのですが、これは、渡辺監督の『元』を一字取って、『元国』にしたそうです。当時、監督は渡辺元という名前でした」
渡辺監督は1996年に胃潰瘍を患い、1か月以上の入院生活を強いられた。これを機に、妻の勧めで姓名判断を受け、『元(はじめ)』から『元智(もとのり)』に改名している。
佐野は1980年にウエスタン・リーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得するなど大器として期待されたが、プロとしては大成しなかった。だが、その後は横浜大洋、巨人で長年にわたりコーチを務め、通算試合出場のプロ野球記録を作った谷繁元信などを育てた。
谷繁は、2000本安打を達成したとき、日刊スポーツの取材にこう語っている。
〈佐野さんはすごくユーモアがあって練習は厳しいんだけど、いろんな練習方法をやってくれたり。試合前でもキャンプでもつきっきりで、宜野湾から宿舎のある那覇まで15キロくらいを一緒に走ってくれたりね。いろんな練習方法を考えてきてくれた〉
厳しさのなかにある優しさ。これは、渡辺監督の指導法の根底にあるもの。『元』を名前に取り入れた佐野は、選手時代は思うように過ごせなかったが、指導者として花開いた。2000年に巨人のコーチを退任後、現在は少年野球の指導に力を入れているという。渡辺監督は選手だけでなく、名指導者も育てていたのである。