昨年11月、肝不全でこの世を去った、俳優の菅原文太さん(享年81)は、亡くなる直前まで4年間、月刊誌『本の窓』(小学館)で、対談連載を続けてきた。7月から、その誌上で妻の文子さん(73才)が同誌で新しく連載を始めた。
「いつも対談の場につき添っていた私に編集部が書くことを勧めてくれました。思いがけないことでしたが、迷ったときは積極策に出ることにしています。何もしないで後悔するよりいいですから」(文子さん、以下「」内同)
ふたりは文太さんの発案で2009年より山梨県北杜市へ移り住み、無農薬有機農業を営んできた。結婚したのは文太さんがまだスターになる前のことだった。暮らしたのは、小さなアパート。式は挙げず、周囲への結婚の報告は年賀状で済ませた。
1967年に東映に移籍してから『仁義なき戦い』や『トラック野郎』シリーズと立て続けにヒット作品を飛ばし、昭和を代表する名優となった。文子さんは1男2女の母として家庭を守りつつ、マネジャーとしても夫を支え続けた。
「俳優というのは、人気がいつまで続くかわからない不安定な仕事だと思い、売れた後も『自分の原点を忘れてはいけない』と、彼には言い続けました。夫もわかってくれていました。また彼は慎重で用心深い性格でした。格闘シーンなどずいぶん危険なこともあったと思いますが、一度も大きなけがはしませんでした。『無事これ名馬』と言ったら褒めすぎかな(笑い)」
俳優業の傍ら、文太さんは次第に社会的な活動に力を入れていくようになった。1992年には、返還問題で揺れる北方4島の暮らしを描いたドキュメンタリー映画を製作した。島の自然や文化、人々の尊厳ある平和な暮らしを守りたいと文太さんが企画し、文子さんがプロデュースした。
平和への強い思い――その原点は、文太さん自身の戦争体験にあった。
宮城県仙台市で生まれ育った文太さんは空襲を逃れるため、父親の実家がある宮城県北部の農村地帯に疎開した。戦争のつらい経験を文子さんにこう語っていたという。
「出征する若い農民たちを女も子供も一緒に見送った。残った女や年寄り、そして子供たちで農村を支えた。戦地に行った若い農民たちは半分も戻ってこなかった。おれの叔父もどこで死んだかもわからないし、だから骨も帰ってきていない」
終戦時に3才だった文子さんにも、食べ物がなかった戦後の記憶が強烈に残っている。
「疎開から東京へ戻ったら、食べ物がなかった。甘いものがないから子供が糖衣錠をなめて、慌てて吐かせることもありました。物々交換しようにも、金属類や宝石は戦時中に没収されていて、戦後は“農家さまさま”だった」
夫婦は1998年に岐阜県の飛騨地方に移住。2009年には山梨県へ移住し、耕作放棄地で無農薬有機農業を始めた。
「一粒万倍になる農業は、命を育てる仕事。生産の仕事です。一方、人の命も物も一瞬で奪い去る戦争は消耗と消費以外の何ものでもない、もっとみんなに農業を勧めたいです」
※女性セブン2015年8月20・27日号