昨年11月に肝不全でこの世を去った、俳優・菅原文太さん(享年81)は、平和の尊さをアピールし、特に沖縄の問題に強い関心を寄せていた。そんな文太さんの幅広い活動を妻として、そしてマネジャーとして公私ともに支えていたのが、妻の文子さん(73才)だ。ともにいたからこそわかる文太さんの平和への願いを引き継ぎ、文子さんは活動を続けている。
文太さんは東日本大震災と福島第一原発事故を機に俳優業を引退し、反原発や非戦を訴える社会的活動へますます傾倒していった。その平和活動の中で、命果てる瞬間まで力を注いだのが“沖縄”だった。
「もともと、アメリカや日本政府の権限が強く、沖縄には地方自治が認められていないという危機感がありました。辺野古問題がクローズアップされて、どうも危ない方向へ進んでいるように思い始めた。現地では一体何が起きているのか、と5年前に夫婦で辺野古へ向かったんです。
そこに居るだけで癒されるような美しい海辺の風景に見とれていたら、米軍基地で見張っていたのでしょうか。私服のアメリカ人が近くの建物から出て来て、辺野古の砂浜に佇んでいた私たちを威嚇するように行ったり来たりしていました」(文子さん・以下「」内同)
その後再び訪れたら真っ白い砂浜を分断して鉄条網が張られていた。
「大変なことになっていると思い知らされました。地元の漁師さんが海上の船を指さして、“あれは自分の船だけれど、もう乗れない”と言うんです。周囲の山も民間の土地だったのに、入ってはいけないと言われるようになってしまったんだ、と悲しそうでした」
人々の日常が簡単に奪われていた。ふたりは2014年秋の沖縄県知事選挙で辺野古移設阻止を訴えていた翁長雄志さんを応援することを決めた。この頃、文太さんの体は病魔にむしばまれていた。2007年に患ったがんが再発していたのだ。
「応援演説を頼まれて、他の予定をキャンセルして沖縄に駆けつけました。夫はがん再発を知っていたけれど、まったく迷いはなかった。階段で転んで腰を打って、歩くのが大変だったので、カートを用意してもらい、壇上に上がりました」
少し痩せ、白髪の文太さんは那覇市内の球場で1万人超の聴衆を前に立った。
「政治の役割は2つあります。1つは安全な食べ物で国民を飢えさせないこと。もう1つは戦争をしないこと」
そしてゆっくりと力強く、こう続けた。
「沖縄はそこに住む人のもの。勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ」
文子さんが、その当時を振り返る。
「与えられた時間が短かったので、私も手伝ってあらかじめメモを作りました。特に、(前沖縄県知事で、2013年に辺野古の埋め立てを承認した仲井眞弘多候補者に向けて発した)“仲井眞さん、弾はまだ一発残っとるがよ(『仁義なき戦い』の名台詞)”という言葉はアドリブで、この一撃で会場もワッと沸きましたね」
翁長氏の当選を病院のベッドで知り、文太さんは「本当? よかったなぁ」と喜んだ。そしてそのわずか12日後に亡くなった。
今年4月、文子さんは辺野古への基地移設に反対する『辺野古基金』の共同代表に就任した。
「夫は立派な人でした。よく働き、正義感があり、そしてよく飲みました(笑い)。共同代表になったのは私個人の意志でもあります。自分のすることは自分が決める、これが民主主義です。農業はもちろん、自分が信じる道を強く進んでいきたい。
自然災害とは違い、戦争という人為的な大規模災害は人の手で止めることができる。政府任せにせず、私たちひとりひとりがよく考え発言すること、そして自ら堤防を築く姿勢が大切だと感じています」
※女性セブン2015年8月20・27日号