今年でデビュー25周年を迎えた福山雅治(46才)。今でこそ、日本を代表するアーティストだが、すぐに売れたわけではなかった。
地元・長崎の工業高校を卒業後、福山は電機メーカーの営業職に就職するも数か月で退職。その後、「おれはミュージシャンになる」と宣言してバイクを売った20万円を靴下の中に隠して夜行列車で上京し、友人宅に転がり込んだ。
4畳半の友人宅で暮らしながら新宿で宅配ピザのバイトを始めたが、長崎のお国訛りから「長崎クン」と呼ばれ、そのうちにクビになった。
その後に勤めたのが材木店だ。履歴書に「趣味・音楽」とだけ記し、面接では「オーディションの時は仕事を休ませてほしい」と訴えた。採用されて朝昼の弁当付き日当8000円で働いた。仕事に慣れてくると角刈りにねじり鉢巻き姿で、2tトラックをひとりで運転して建築現場を行き来した。
それでもミュージシャンになるという夢を忘れず、ライブハウスに通いつめた。音楽活動の助けになればと仕事の合間に俳優のオーディションを受け続け、俳優デビューのきっかけをつかんだ。そして、1990年3月にシングル『追憶の雨の中』で念願の歌手デビューを果たす。
今でこそ福山は、老いも若きも男も女も熱狂する日本を代表するトップアーティストだが、前述してきたとおり下積み時代も長かった。その暗く長いトンネルにいた福山を支えていたのは父親の言葉だった。
実は福山はインタビューなどで「家族のことは好きじゃなかった」と語ってきた。というのも、父親は博打好きでほとんど家にも帰らず、パート勤めの母が家計を支えた。家族旅行も外食も買い物の記憶もない。その父は17才で他界してしまうが、福山は、小学生のある日の出来事を今でも鮮明に覚えているという。
8月16日放送の『ヨルタモリ』(フジテレビ系)に出演した福山はこう振り返った。
その日、まだ少年の福山は父親から「たばこを買ってきてくれ」と頼まれたが、近所に父親の好きな「LARK」が売っておらず、遠くまで歩いて買いに行った。帰宅した途端、母親から「どこに行っとったんね。そんなに時間かかって。心配するがね!」と叱られたが、父親はそんな母親を制し、こう優しくつぶやいたという。
「いやいや待て待て、そうじゃなか。雅治は『LARK』ば探しに行ったと。コイツは根性だけはあるとたい」
当時に思いを馳せながら福山はしみじみとこう語った。
「ぼくは後にも先にも親父に褒められたのはそれだけ。“根性だけはあるとたい”と言われたことが成功体験としてあって、それを支えに東京で頑張った。この25周年は、父ちゃんのその一言で支えられてきたんじゃないかって」
※女性セブン2015年9月3日号