戦後、繊維商社だった伊藤忠商事の会長に就き、同社を世界規模の総合商社に発展させた瀬島龍三氏は昭和を代表する実業家として知られている。中曽根康弘・元首相のブレーンとして政財界に大きな影響力を持ち「昭和の参謀」とも呼ばれた人物だ。
明治44年(1911)生まれの瀬島氏は陸軍士官学校を首席で卒業後、関東軍参謀本部で太平洋戦争の指揮にかかわり、無数の日本兵が餓死したガダルカナル島の撤退作戦では立案主任を務めた。
戦後は11年間にわたりシベリアに抑留されたが、その瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる“シベリア抑留密約説”だ。
瀬島氏は終戦直後の1945年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである。
戦後、作家の保阪正康氏や「全国戦後強制抑留補償要求推進協議会」などは、日本側がソ連に示したとされる『対ソ和平交渉の要綱(案)』に「賠償として一部の労力を提供することには同意す」との文言があったことなどを根拠に、密約があったのではないかと疑問を呈した。
瀬島氏はこの密約説を「根拠のない虚構」と一蹴したが、彼を“隠れ共産主義者”と目する向きは少なくなかった。瀬島氏の帰国後、警視庁外事課ソ連欧米担当第一係長を務めていた佐々淳行氏が振り返る。
「瀬島氏は抑留中、KGBに最後まで屈服しなかった大本営参謀と評されたが、我々は違う見方をしていた。帰国後、瀬島氏がソ連大使館員と神社仏閣などで接触していた事実を外事課は確認していた」
後に、「シベリア抑留中の瀬島が日本人抑留者を前に『天皇制打倒! 日本共産党万歳!』と拳を突き上げ絶叫していた」というソ連の元対日工作員の証言や「瀬島らはウランバートルで特殊工作員として訓練された」とするソ連の元書記官が現れたことも疑惑を深める一因となった。
関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡したシベリアの悲劇について、瀬島氏は多くを語ることなく2007年にこの世を去った。
※SAPIO2015年9月号