近年の日本は猛烈な少子化が進行しているが、それと対照的に毎年200万人前後の子どもが生まれた“第二次ベビーブーム”を迎えたのが1970年代だ。1970年代前半は、ベビーブームとオイルショックが同時に訪れる波乱の時代だったが、その時代を巧みに生き抜いた億万長者はどんな人物だったのか?
1970年3月、大阪でアジア初の「日本万国博覧会」が開催。世界77か国が参加し、入場者は6400万人を超えた。大阪万博は「世界第2位の経済大国」となった日本の発展を世界にアピールする場となった。
1970年度は、初めて「億万長者」が1000人の大台を超える。1位は大谷竹次郎・昭和電極社長(申告所得額=15億3639万円。1970年代の国家公務員の初任給は3万1510円~9万7500円)で、2位は村山長挙・朝日新聞社主(同12億1007万円)だった。
大谷は、ホテルニューオータニの創業者・大谷米太郎の実弟で、1947年に同社社長に就任した(松竹の創業者の一人・大谷竹次郎は同姓同名の別人)。妻と早くに死別し、子供のいなかった竹次郎は生前、所有する土地・建物や美術品コレクションを兵庫県西宮市に寄贈。1972年11月、自分の名前が冠された西宮市大谷記念美術館が開館した。
1971年度の長者番付は上位100人のうち95人が「土地長者」という異例のランキングになった。トップの関兵馬・関兵精麦社長(同38億9094万円)は旧制中学を中退後、砂糖問屋に勤めるが1931年に独立。1942年には稼いだカネの全てを注ぎ込んで宮城県仙台市郊外で牧場経営を始めた。
その後、ブルドーザー1台で不動産開発事業にも進出。所得が日本一になったのは、仙台市内に所有していた山林約70万平方メートルを総額41億円(1坪約1万9000円)で売ったためだ。
1972年7月、総理大臣に就任した田中角栄が『日本列島改造論』を発表したことで、日本全土に投機や買い占めなど「土地ブーム」が巻き起こる。
同年度の1位は韓黎・ナボー開発代表取締役。中国・広東省生まれ(後年、日本に帰化)。1946年、台湾の大使館関係者として来日し、1951年頃に中華料理店を経営。都心の土地50坪を売って15億8783万円の所得を得て日本一になった。当時、感想を訊ねられた韓は「ベリ、ベリ、ハッピィね。(庶民の)みなさん、お気の毒」と語った。
(文中敬称略)
※週刊ポスト2015年9月25日・10月2日号