読売新聞中興の祖である正力松太郎。A級戦犯容疑で巣鴨に収監され、釈放された時、62歳になっていたが旺盛な精力は衰えていなかった。ノンフィクション作家・佐野眞一氏が追った。
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正力は生涯大欲の人だった。戦前の昭和9年、巨人軍の前身の大日本東京野球倶楽部をつくり、「プロ野球の父」といわれていたが、その程度で満足できる男ではなかった。
昭和26年のサンフランシスコ講和条約の締結により、公職追放が解除されると、正力は腹心の柴田秀利を使って、日本にテレビの導入を図った。これにより正力に「テレビの父」という称号が加わった。
次に正力が目をつけたのは、原子力の平和利用だった。ここでも活躍したのが、正力の「影武者」ともいうべき柴田だった。柴田はまず、日本にテレビを導入するにあたって親交を結んだアメリカ人技師に手紙を送った。
返事には日米双方のために役立つことなら喜んで協力したいと記され、原子力平和利用使節団の一行として、ジェネラル・ダイナミクスのオーナーや、第二次世界大戦中はマンハッタン計画に参画し、ノーベル物理学賞を受賞したアーネスト・ローレンスら5名を派遣したいと書き添えられていた。柴田がこの手紙をもって正力のところへ行くと、正力は喜色満面となって、こう言った。
「アメリカがそこまで力を入れてくれるなら、ついでに原子炉の一つぐらい寄贈してもらえ。広島、長崎の償いと思えば安いもんじゃないか」
この鉄面皮こそ、正力の真骨頂だった。
昭和31年9月18日、茨城県東海村の原子力研究所は朝からお祭り気分だった。午後1時、式典は神官のおごそかな祝詞とともに始まった。原子力委員会の初代委員長に就任した正力は白い布のかかったテーブルの上のスイッチをおもむろに押した。
このとき、わが国初の原子炉が臨界点に達した。これは、正力の生涯にとっても一つの臨界点だった。この日、正力の頭上に、「原子力の父」という新たな冠が加わった。(文中敬称略)
※SAPIO2015年10月号