1987~2002年、阪神タイガースは「暗黒時代」と呼ばれる低迷期を過ごしていた。だが暗黒時代で唯一、ファンが希望を持てた年が1992年だ。新庄剛志やらの若い力を軸に躍進、最終的には2位となる。当時のチームの切り込み隊長だった亀山つとむ氏が1992年を振り返る。
* * *
1990年代はチームは暗黒時代だったが、僕ら若手にとってはチャンスでした。当時は若手(亀山、新庄剛志、山田勝彦、久慈照嘉)、中堅(和田豊、八木裕)、1985年日本一のベテラン(岡田彰布、木戸克彦、真弓明信、平田勝男)が混在。レギュラーが固定されておらず、ポジションを奪える可能性があったからです。
ただ、1985年組からレギュラーを奪うのは簡単ではなかった。人気球団のタイガースは客が呼べ、グッズが売れる人気選手をスタメンから外せない。特に僕がレギュラーを狙っていたライトは真弓さんの定位置。守っていても「なんで不細工な亀やねん。男前の真弓を出さんかい」とヤジが飛んでいました。怖くて深く守れなかったです(笑い)。
〈そんな中の1992年、亀山氏はレギュラーを獲得するが、それは「奇跡の連続」だったという〉
開幕直後の東京遠征では先発投手を1人減らして野手を入れることになり、守備固めと代走要員の僕が一軍のベンチに入った。甲子園に戻ってきた段階で二軍に落ちる予定でした。
開幕カードのヤクルト戦で代走に起用され、延長に突入したことで打席が回りヒットを打てた。次の巨人3連戦ではタイガースが苦手にしている斎藤(雅樹)さんに対して左を並べる戦略をとり、ヤクルト戦で打った僕も選ばれることになった。
その試合でボテボテのセカンドゴロで一塁にヘッドスライディング。内野安打になった。これがきっかけでヘッドスライディングが僕の代名詞になったし、試合も逆転勝ち。一軍定着に繋がったのです。
巨人戦でのヘッドスライディング後、2か月ぐらいは必死に頭から突っ込みました。人気が出てくるとやらなくてもいい場面でも頭から行かざるをえなかった(笑い)。
「亀新フィーバー」として僕と一緒に騒がれた新庄はもっと運がよかった。あの年、新庄はロースター枠(開幕一軍40人枠)から外れていたが、嶋田章弘さんやオマリーが骨折したことで、新庄が代役で出場し、そのままレギュラーになったんですから。
後にも先にも、ファームで仕込んだ選手が上で戦えたのは1992年だけ。人気選手は打てなくても走れなくてもスタメンで使うのがタイガース。新陳代謝がうまくいかない、人気球団の宿命が、暗黒時代を作ってしまったといえるのかもしれません。
※週刊ポスト2015年10月16・23日号