カラーグラビアページで春画を掲載した『週刊文春』(10月8日号)について、発行元の文藝春秋が、「編集上の配慮を欠いた点があり、読者の皆様の信頼を裏切ることになった」として突如、「編集長の3か月休養」を発表した。
このことは、他誌に先駆けて何度となく春画を掲載してきた本誌『週刊ポスト』にとっても、決して他人事ではない。警視庁は春画を「わいせつ図画」だとみなし、本誌を含め春画を掲載した週刊誌数誌を呼び出し、“指導”を行なっているからだ。本誌編集長もこの1年の間に2回、呼び出しを受けた。
果たして春画は芸術かわいせつか。それを週刊誌に掲載することは是か非か。この問題について議論すべく、フランス文学者の鹿島茂氏に意見を求めた。
* * *
『週刊文春』の春画グラビアを問題にする必要は全然ないと思います。
春画は過去の芸術のあり方のひとつであって、現在あれで発情する人がいるとは思えません。わいせつだと感じる人がどれだけいるのか。
芸術とわいせつの線引きは難しいが、要するに作家表現が入ってるかどうかではないか。過去のものに関しては単なるわいせつ物だったら時代の波に洗われて、消えてしまっているはずです。
春画が残ったということは、そこにやはり作家表現が確固としてあって、それがわいせつかどうかを超えて我々の目に届くのだと思います。
西洋が春画を発見したのは、性器をデフォルメ化するような表現方法が西洋には存在しなかったから。かつて日本の美術家たちが、西洋絵画の三次元の立体透視図法を見たのと同じような衝撃を、西洋人は春画に感じたのです。
たとえば、インドのカジュラーホ寺院の彫刻には性行為の場面が彫られていますが、あれにエロティックな感覚を覚える日本人はいないでしょう。それと同じことで、西洋で春画をわいせつと感じる人はいないと思います。
春画にしてもインドの彫刻にしても、作られた当時はエロティックなものとして興奮する人がいたかも知れない。でも時代を経て、表現方法の部分に芸術性を見るように見方が変わってきた。だから春画は立派な芸術になっていると思います。
※週刊ポスト2015年10月30日号