「朝いちばんの仕事は、60~70通のメールのチェックから始まります」。真っ赤な外国車を自ら運転、約束の場所にさっそうと現れたのは、木全ミツさん(きまた・みつ、79才)。
1936年生まれの木全さんは、東京大学医学部衛生看護学科卒業後、労働省(現・厚生労働省)入省。長男を育てながら、ODA(政府開発援助)の仕事に打ち込む。49才で国連公使となりニューヨークへ単身赴任。1990年、53才で労働省を退職し、同年、ザ・ボディ・ショップジャパン初代社長に就任。2002年、65才でNPO法人女子教育奨励会(現NPO法人JKSK女性の活力を社会の活力に)を立ち上げ、初代理事長に就任──という経歴の持ち主だ。
そんな木全さんが、透明感ある若々しい声で、毎朝4時半に起床する「今」を語る。
「洗濯機を回して、ごはんの支度をして、5時半には朝食を。6時から7時がウオーキングと体操。シャワーを浴びて、パソコンの前に座るのが7時半ですね」
木全さんが、自分の将来をしかと見つめたのはわずか9才のとき。
「私は男6人、女3人の9人きょうだいの次女で、誰からも関心を持たれない、“どうでもいい子”だったの(笑い)。 “勉強しなさい”と言われたこともなくて、“お手伝いしなさい”ばかり」
一家は朝鮮半島で終戦を迎えたが、軍医だった父親がシベリアに抑留されて、帰国が遅れたことから、貧乏のどん底も味わった。
「明治生まれの両親は、当時としては珍しい恋愛結婚です。母は愛する若い軍人と結婚し、将来は陸軍大将の妻になる、という夢を描いていたのです。でも、日本は戦争に負けて、母は夢の梯子を外されてしまった。
その姿を見ていて、人に頼って生きる哀れさを私は痛いほど感じました。たとえ幸せな結婚をしても、人生にはいつどんなことが起こるかもわからない。私は他人に頼らない、夫に頼らない自分の人生を切り開いていこう、と決意しました」
自立して生きるための第一歩として、東大医学部に進学。学んだ学問を生かせる職場として、軍国主義に別れを告げて、民主主義の下で生まれた労働省に入省した。
「私が生きる社会は、日本の男社会以外の選択肢はありませんでした。まず、この男社会を知ろう、その中で演じていこう、そして少しずつ改革していくしかないと思いました。真正面から正論でぶつかっていってもだめ。差別や理不尽さを怒っても何も変わらない。そのエネルギーをプラスに持っていかなければもったいない。私は事実を知ったうえで、演じていこうと決意しました」
「仕事感情」(建前)と「個人感情」(本音)を混同せず、自分の役割、目的、使命を優先すること。そして相手を尊敬する。それが、木全さんの言う「演じる」の真意だ。たとえ相手に非があっても無礼や落ち度を責めたりせず、どんな場合でも、相手も自分も大切にするコミュニケーションを心がけてきた。
「福岡出身の私は、“3歩下がって男の影を踏まず”、という九州の保守的な慣習を新しいリーダーシップととらえてきました。たとえば交渉の場でも、自分の主張を強引に押し付けるのではなく、まず相手の話に耳を傾ける。相手は、自分の主張を思う存分訴えた満足感の中で、こちらの話を聞きたいという態度になる。
そこで初めてこちらの話を短く、明快に、丁寧に説明する。すると、こちらの要望は、120%聞き入れてくれるのです。これは決してへりくだるということではなくて、相手を尊敬し、相手の気持ちを大切にするということなのです」
国連の公使時代は、世界の小さな国々の公使たちと頻繁に会い、先方の話にじっくり耳を傾けた。その結果、心の通った真の関係を結ぶことができた。
※女性セブン2015年10月22・29日号