【書評】『山崎豊子先生の素顔』/野上孝子著/文藝春秋/1500円+税
【評者】関川夏央(作家)
大阪・船場の老舗昆布問屋「小倉屋山本」の娘・山崎豊子は一九四四(昭和十九)年、二十歳で京都女専(現京都女子大)を卒業すると毎日新聞大阪本社に入社、五七年、三十三歳で、実家の歴史をえがいた『暖簾』を発表した。五八年、吉本興業創業者・吉本せいの人生を『花のれん』で書いて直木賞受賞、それを機に退職した。
野上孝子が堺・浜寺公園の山崎邸で秘書候補の面接を受けたのは六二年、二十二歳であった。山崎豊子の実家は有名だが、小説は読んだことがなかった。
人に「先生は一見、可愛らしそうやけど、きついでっせ」といわれたとおりだった。注文はきつい。怒ると「意見無きものは去れ!」と男言葉で怒鳴る。耐えかねて辞めるつもりで山崎邸を出たのに、浜寺公園駅にまで電話をかけてくる。求めに応じて引き返したとき、半世紀におよぶ野上孝子の秘書人生が始まった。
翌年、山崎豊子が着手した長編小説は、国立大学医学部の教授選と誤診という主題、『白い巨塔』というタイトル、「財前五郎」という主人公の名前が決まると、とたんに躍動し始めた。
ひと言でいえる主題、タイトル、主人公の名前が長編の条件であることは、たとえば「小が大を食う銀行合併」『華麗なる一族』「万俵大介」と、以後も同様であった。だが「日本のバルザック」と呼ばれ、「丸太を斧で割る」タイプであった彼女は、ときに細部に目が届かず「盗用」疑惑を三度も起こした。
『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』と戦争の傷を書きつづけた戦中派の彼女が、最後の作品で海上自衛隊を扱ったのは、「この先も戦争反対だけで通るやろうか」「戦争の犠牲者を書いて来た者として、素朴な問いかけをしてみたい」との思いからだった。
作家生活五十七年で長編十四作、ほとんどが大ベストセラーとなった。だが山崎豊子は二〇一三年九月、八十九歳で「書きながら棺に入り」、十五作目の『約束の海』は未完に終った。
※週刊ポスト2015年11月20日号