11月30日に亡くなった漫画家の水木しげる氏。国内では追悼番組が相次いで放送され、その訃報は米国、フランス、中国と世界中で伝えられた。
水木氏には「妖怪」だけでなく、「戦争」をテーマにした作品も多い。それは自身の悲惨な体験があった。今年5月まで『ビッグコミック』で連載された『わたしの日々』(小学館)の担当編集者・西村直純氏が語る。
「当然、戦争は起こってはいけないものだというのが大前提です。ただ先生の戦記物を読んでも全然暗い気持ちにならない。辛いエピソードであってもユーモアでくるんでいて。きっと戦争を体験していない若い世代に“戦争の残酷さ”を水木流で伝えようとされたのだと思います」
水木氏は21歳で南太平洋の激戦地であるラバウルに赴き、敵の爆撃によって左腕を失った。
〈水木サンの中隊は200人くらいいたけど、5、6人を残してみんなやられちゃった。私は腕をなくしたけど、戦友は全部死んだんです。腕1本と命一つの差は大きいですよ。生きていたほうがいい〉
かつてあるインタビューでこう語っていたように、死と隣り合わせだった。腕を失った水木氏は、原地のトライ族と出会う。後に「彼らとの交流は、苛酷な戦場での唯一のやすらぎだった」と語っているように、トライ族の人々に気に入られ、終戦後には村に残って暮らそうと本気で考えたという。だが、「両親に会ってからでも遅くはない」という上官の言葉で帰国した。
しかし、当時の日本は米国の占領下。海外への再渡航が叶うはずもなく、水木氏は漫画家への道を進む。水木氏が再びラバウルを訪れるまでには30年近い年月がかかった。
「先生は現地の人々との交流を大事にされて、何度も足を運ばれていました。1994年ぐらいだったと思うんですが、親しかったトペトロさんという方のお葬式に行かれています。これには私も同行したのですが、それは盛大なお葬式で。その式のお金はすべて先生が出されたと聞いています」(西村氏)
ラバウルでの日々は、水木氏にとってかけがえのないものだったのだろう。あるときから、こんな夢を抱くようになったという。漫画雑誌『ガロ』で『星をつかみそこねる男』などを担当したエッセイストの南伸坊氏がいう。
「還暦を過ぎたころから、水木さんは“ラバウルに移住したい”と言ってました。奥さんやお嬢さんたちに反対されて断念したみたいでしたけど……」
自分本位に生きた水木氏の叶わなかった唯一の夢だったのかもしれない。
※週刊ポスト2015年12月18日号