東京から特急電車で1時間。のどかな田園風景のなかに建つ、古びた2階屋の一戸建ての玄関には、薄れた手書き文字の表札がかかっている。トタンの外壁は風雨にさらされ色が落ち、赤茶色にくすんでいるが、1階の一部分は茶色のペンキで塗り直され、窓枠には手作りの木の柵が設置されているなど、所々に修繕の跡が見え、年老いた夫婦の慎ましい生活がうかがえる。
ここに住んでいたのは、どこにでもいるような、ごく平凡な老夫婦だった──。
事件が起きたのは2014年11月のこと。当時92才の夫が以前から足腰の痛みを訴えていた妻(当時83才)に“殺してほしい”と頼まれ、自宅で首を絞めて殺害。自ら110番通報した。夫は逮捕後、嘱託殺人の罪で起訴され、今年7月に千葉地方裁判所で「懲役3年、執行猶予5年」が言いわたされた。
懲役3年の求刑だったものの、嘱託殺人罪に問われながら執行猶予は5年。法廷で読み上げられた判決理由は、ふたりきりの環境で献身的に介護を続ける夫の心情を慮るものだった。
《被告人が、被害者の介護に追われ、心身共に疲弊し、追い詰められた状況で、被害者から殺してほしいと懇願され、苦しみから解放するためには他に方法はないと考えて犯行に及んでおり、その判断を強く非難はできないことに照らすと、被告人の刑事責任に見合う刑罰として実刑が相応しいとはいえない》
また、夫の行動を《短絡的な犯行》としながらも、《被告人が被害者に対する愛情故に犯行に及んだことを疑う余地はない》《60年以上連れ添った妻を自ら手に掛けることを決断せざるを得なかった被告人の苦悩を考えれば、同情を禁じ得ない》とした。
殺人は決して許されることではない。しかし静まり返った法廷内には涙を拭い、鼻をすする音が響いた。人を殺害した事件で、これほどまでに被告の心情に寄り添った判決文はかつてないだろう。
老々介護、介護疲れ―─追い詰められた家族による悲しい結末は、後を絶たない。
介護事件に詳しい、彩の街法律事務所の神尾尊礼弁護士は、今回の判決が報道されることに意義があると話す。
「今回の判決文は、かなり被告人に同情しています。“追い詰められたのはやむをえない”くらいまでは書いたとしても、殺人という決して犯してはならない罪において“愛情故の犯行だった”という文言はなかなか目にしません。実際に介護に追われている人たちはニュースや新聞を読む間もない。だからこそ一過性の報道ではなく、事件を掘り下げて報道し続けることで、介護に悩んでいる人たちにも届く。こういう大変な人は自分だけじゃない、と思えるんです」
裁判で夫は、「今でも妻を愛しています」と語った。裁判官は、その夫に判決を言い渡した後、閉廷前にこう語りかけた。
「今度会ったときに奥さまが悲しまないよう、穏やかな日々をお過ごしになることを願っております」
※女性セブン2015年12月24日号