このように、キム・ギドクの作品には必ずといっていいほど、社会的メッセージが込められる。本作のテーマは「民主主義」だが、前作の『嘆きのピエタ』(2012年)では、韓国社会に蔓延する高利貸しの問題を取り上げ、拝金主義の世のあり方を問い直した。映画は大ヒットし、その結果、韓国では「ピエタ法」と呼ばれる違法金利規制法の整備が進んだという。
──監督にとっては、映画は常に社会批判の手段です。映画が社会を変革するような反響は、いつも期待したように起きるのでしょうか。
「資本主義でお金が人間を狂わせ、社会を破壊することを描いたのが『嘆きのピエタ』ですが、結果として、少しは(社会の変革に)効果があったかもしれません。でも、『殺されたミンジュ』は、韓国社会に与えたインパクトもそれほど大きくはなかった。あれだけ韓国の現実を赤裸々に描いているのに、自分にもあてはまる物語であると気づかず、自らの問題と受け取らないからです。これがいまの韓国の現実です」
それにしても、キム・ギドクの作品では、『うつせみ』のように、犯罪者が逆に善行を行うなど、善と悪が入れ替わる構図が好んで使われる。本作でも、正義を遂行するはずの「シャドー」が次第に暴走して、「悪」に染まっていくかのような展開になる。
──監督は、究極的には、善も悪もそう変わらない、という価値観を持っておられるのでしょうか。
「これは告白でもありますが、私自身がまず、そうなのです。私の中に矛盾があり、善と悪があいまいになっていて、対立している。恐らく、すべての人間にそういう部分があるのです。心の中を覗き込むと、善と悪は常に併存している。善と悪が入れ替わることは、人間のDNAに埋め込まれたシステムのようなものです。私たちは被害者にも加害者にもなり得る。『殺されたミンジュ』のなかの登場人物の誰にでもなり得るのです」
本作を含め、韓国映画一般のなかから感じるのは、北朝鮮という「悪」があるため、韓国の権力機構のなかでどうしても過剰な暴力すら正当化されやすい体質があることだ。本作でも出てくるセリフ「滅共!」と叫べばすべて許されるような「敵」の存在は、権力の暴走を招くのではないだろうか。
──監督は貧しい山村で育ち、世代としては若いころに反共教育を受け、軍隊生活を経験してから、映画の世界に入っています。やはり監督のなかでも北朝鮮の存在は「悪」の象徴なのでしょうか。
「子供の頃、私の教科書には共産党に虐殺された子供の逸話が載っていました。軍隊でも北朝鮮は絶対悪、北朝鮮の人民を救わないといけないという正義感を教え込まれました。しかし、除隊してからは、不思議なことに北朝鮮が善か悪かという区別はなくなり、いたたまれない、もどかしい場所であると思うようになりました。私にとっての悪は、表面に現れる国家ではなく、個人のなかに内在する何かなのです。北朝鮮は孤立している。大きな力が彼らを包囲し、彼らの抜け道を閉ざしている。勝つと分かっている人たちが彼らを包囲している。誰が強いかは明らかで、その巨大な力のほうが恐ろしいと思います」