今では冷え込んでいる日韓関係だが、かつて、日本の元皇族でありながら韓国人からも慕われた人がいた。日韓の架け橋のような存在だった朝鮮・李王朝最後の皇太子に嫁いだ李方子(り・まさこ)は自身の祖国について、「二つあります。一つは生まれ育った国、そしてもう一つは骨を埋める国です」と語っている。方子にとって、生まれ育った国とは日本、骨を埋める国とは韓国のことだ。
方子は1901年、皇族梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれた。母は旧佐賀鍋島藩主の娘で、方子は後の昭和天皇の妃の有力候補にあがっていたが、日韓併合という当時の政治に翻弄され李王朝の皇太子・李垠と1920年に結婚する。
『朝鮮を愛し、朝鮮に愛された日本人』(祥伝社新書)などの著書がある作家・江宮隆之氏の話。
「日本の元皇族でありながらも韓国で障害児教育に尽くした彼女は、日韓関係の架け橋のような存在でした。彼女のような人が現代にもいれば、両国の関係はもっと良くなるのでは、とさえ思えるほどです」
方子は大日本帝国陸軍将校として日本で暮らす夫を支えた。戦後、夫妻は韓国への帰国を試みるが、日韓の国交が樹立されておらず、帰国を阻まれる。ようやく帰国が実現し、韓国政府によって国籍が復活されたのは1963年、方子が62歳の時だった。しかし既に夫は病魔に蝕まれており、1970年にその生涯を終える。
方子は生前夫が語っていた「福祉事業に貢献したい」という遺志を引き継ぎ、韓国での知的障害児、肢体不自由児などの障害児教育に邁進した。当時、韓国ではまだ福祉事業への理解が薄く、障害者がいる家庭では障害があることを忌避し隠そうとする風潮があったため、方子はそれに風穴を開けようとしたのだ。
寄付を集めるために100回以上も韓国と日本の間を往復した。さらに、李王朝の宮廷衣装ショーを世界中で開催するなどして資金を集め、障害児教育施設を設立するなど、方子は韓国の障害児教育にありとあらゆる力を尽くして生きた。
1989年に87歳で生涯を終えた方子の葬儀には、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列。葬送の行列は1キロに及んだ。
「方子は身分や肩書にとらわれず、一人の人間として韓国人と向き合い、障害児教育に生涯を捧げた。その功績により『韓国のオモニ(母)』と慕われました。皇室の一人として生まれ、激動の生涯を生き抜き、最後には一韓国人として死んでいった方子の人生は、後の世に生きる日本人、韓国人の双方に大きな道を示してくれているのだと思います」(江宮氏)
(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2016年1月1・8日号