日本・トルコ合作映画『海難1890』が公開中だ。映画では、紀州沖の遭難事故とその救援が劇的に描かれトルコが親日国となったという印象を与えるが、実際には、ある日本人の継続的な尽力があったからこそ現代のトルコにも親日が引き継がれた。その日本人、山田寅次郎の出身地、群馬県沼田市の生方(うぶかた)記念文庫の学芸員・手塚恵美子氏の話。
「1890年にトルコ軍艦エルトゥールル号が紀州沖で遭難、500人以上の死者を出す惨事となりました。トルコ皇帝の親書を携えて明治天皇に謁見したばかりの大勢のトルコ人が、祖国から遠く離れた海で亡くなったことに、山田寅次郎は強く胸を痛めた。それをきっかけに義援金集めをするべく立ち上がったことが全ての始まりです」
この逸話が、トルコが親日になる礎を築いたといわれている。トルコでは小学校の教科書の副読本にこの史実が載っているため、誰もが彼の名を知っている。
茶道では「山田宗有(そうゆう)」として宗へん(※「へん」は彳に扁)流の第8世家元を名乗るなどの文化人。トルコ皇帝に謁見する際には、義援金のみならず鎧兜や陣太刀など日本の伝統工芸品を献上、それをいたく気に入った皇帝から「トルコ国民に日本語を教えるため、トルコ語を学んでほしい」と依頼され、寅次郎はトルコで暮らし始める。
「寅次郎の生徒の中にトルコ共和国の初代大統領、ムスタファ・ケマルがいるなど、現代トルコに大きな影響を与えたといわれています」(同前)
まだ両国の間にほとんど国交がなかった時代。寅次郎は「民間外交官」として日本とトルコの間を取り持ち、正式な国交樹立に奔走した。その背景には、西欧列強がアジアを次々と植民地化する中、トルコとの交流を通じて日本の独立を維持したいという意図もあったという。しかし、山田が尽力して築かれた日本とトルコの友誼は、その後あるドラマを生み出すことになる。
1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機をすべて撃墜する」と宣言した。世界各国は自国民救出のためイランへ救援機を出したが日本政府は当時、自衛隊の海外派遣不可の原則があったため救援機を飛ばすことができなかった。取り残された215人の在留邦人を救ったのはトルコ政府の要請を受けた2機のトルコ航空(現・ターキッシュエアラインズ)機だった。
イラン上空を抜けたのはタイムリミットのか1時間前。事件から95年後の恩返しだった。
(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2016年1月1・8日号