NHK大河ドラマ『真田丸』が10日にスタートする。主人公の真田幸村は、小勢力ながら大坂の陣で三英傑のひとり徳川家康を追いつめ、後に「日本一の兵」と評された。彼の原点を求め、信州・上田の地を元NHKアナウンサーの松平定知氏が訪ねた。以下、松平氏が語った。
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江戸時代の軍記物や明治から大正にかけての講談本、そして現代の小説やゲームで伝説的な戦国武将として描かれ、いつの時代でも高い人気を誇るのが真田幸村(信繁)です。大阪城の売店で聞いた話ですが、秀吉よりも幸村の関連グッズは売れているそうです。
彼は天下をとったわけでも、天下人の名参謀だったわけでもなく、常に存亡の危機に晒された小大名の息子にすぎません。それなのにこれほどの人気を誇る理由は、判官贔屓という日本人特有の心情を刺激するからでしょう。
幸村は徳川が豊臣を滅ぼした慶長19~20(1614~15)年の大坂の陣に豊臣方の中心的な武将として馳せ参じ、圧倒的な兵力の徳川方を相手に互角以上に戦い、首をとるあと一歩のところまで家康を追い詰めました。
その幸村の原点が故郷・信州です。真田家発祥の地である真田郷(上田市真田町)は信州の東端に位置し、峠を越えると上州(群馬県)です。周囲を有力大名の武田家、上杉家に囲まれ、後に北条家や徳川家も領地に食指を伸ばしてきます。幸村は真田家2代目・昌幸の息子で、信之(信幸)という兄弟がいます。
狭隘な山間部にある真田郷は、近くに白山信仰(山岳信仰の一種)の修験者の聖地があります。もともと呪術に長けた家の血を継ぐ真田家は彼らとよしみを通じ、天下や周辺の情報を入手することができました。
幸村に仕えたという「真田十勇士」の猿飛佐助が修行したとされる角間渓谷は、今でも人里離れた秘境で、狭い渓流の両側に荒々しい岩壁が切り立ちます。少年時代の私に血湧き肉躍る興奮を味わわせてくれた「真田十勇士」は、実は講談本の創作であることを後に知ってずいぶん落胆しましたが、角間渓谷の静寂の中に立つと、「真田十勇士」は架空だとしても、十勇士的な人物はいたに違いないと確信します。
真田家は家康と因縁の関係があります。まず、天正13(1585)年に真田家の領地を巡って相まみえ、兵力に勝る家康軍を引きつけるだけ引きつけてから急襲する作戦で見事に勝利します。その第1次上田合戦を迎えるにあたり、上杉景勝の支援を得るため、幸村は父・昌幸によって上杉家に人質に出されます。期間はわずか1年間で、続いて秀吉のもとに送られましたが、その時に「忠義の人」として知られた直江兼続の知遇を得たことは彼の大きな財産になりました。
慶長5(1600)年、真田家は大きな岐路に立たされます。石田三成が、秀吉亡き後、次の政権を虎視眈々と狙う家康ら東軍と戦うことになったのです。さあ、どちらにつくべきか?
実は昌幸の2人の息子のうち、信之は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を妻に迎えていました。一方、幸村は秀吉の側近の一人・大谷吉継の娘を娶っています。つまり、2人の嫁は敵対する双方の大幹部の娘でした。
そのため父と2人の息子が話し合い、父・昌幸と幸村は三成方に、信之は徳川方について戦うことを決めました。話し合いが下野国(栃木県)犬伏で行なわれたため、その決断は「犬伏の別れ」と呼ばれます。