中国共産党中央は北京市規律検査委員会トップの書記に、14歳で中国でも最難関の北京大学に入学し、「神童」との異名をとった李書磊・福建省党宣伝部長を任命した。李氏は習近平国家主席のブレーンで、地方の部長職から首都・北京市の最高幹部に抜擢されたことで、将来的には北京市長か党委書記への抜擢を予想する声も。2017年秋の第19回党大会では、党最高指導機関である党政治局入りも取りざたされている。
香港紙によると、李氏は習近平国家主席が党の幹部教育機関、中央党校の校長に就いていた際に副校長を務め、習氏専属のスピーチライターの一人だった。2014年2月、福建省党宣伝部長の職に就き、かつて同省の省長を務めた習氏の「優れた仕事ぶり」の宣伝を担ったという。
李氏は14歳で北京大学に入学し、24歳で同大大学院博士課程を修了したほどの優秀さは誰しも認めるところ。
その後、ただちに党の高級幹部を養成する教育機関である中央党校入りし、語文教育研究室主任や文化学教育研究室主任、文史教育研究部主任、訓練部主任や教務部主任など、同校のほとんどの主要部門の責任者を歴任した。
この間、1991年末から1993年初めまで河北省青龍県の党委副書記、2004年2月から西安市党委副書記を務めるなど、末端の地方行政の現場での経験も積んできた。
李氏と習氏の初めての出会いは李氏の西安市勤務時代で、習氏はすぐに李氏の優秀さを見抜き、個人的にも何くれとなく相談に乗ったという。
その後、李氏は北京の中央党校に戻るが、2007年10月に党政治局常務委員に昇格し、中央党校校長を兼務した習氏は翌年末、李氏を副校長に任命。習氏が校長時代、最年少の副校長として、習氏を補佐した。
李氏は当時、43歳の若さで「『北京大出身の神童』、異例の抜擢」などと報じられ、李氏の名は一躍、中国中に知れ渡った。
李氏は、習氏が党総書記など最高指導者に就任して1年あまりというタイミングで福建省の党宣伝部長として転出した。これは習氏が李氏の将来を見込んで、福建省という中国でも有数の省の幹部として行政経験を積ませるためとの見方が強い。
それを裏付けるように、李氏は2年も経たずに、中国でも最も重要な首都・北京の最高幹部として戻ってきており、「これは習氏がほぼ2年半後の第19回党大会をにらんで、李氏の中央指導部入りさせるための布石と考え間違いない」と『習近平の正体』(小学館刊)の著書もあるジャーナリストの相馬勝氏は指摘している。