政治の世界は常に魑魅魍魎が跋扈する“魔界”だが、政治の世界で“戦争”とまで言われた政争がある。ポスト佐藤栄作を巡り、田中角栄と福田赳夫が自民党総裁選で争った1970年に始まる「角福戦争」である。田中が病で倒れる1985年まで続いたが、それですべてが終わったわけではなかったと拓殖大学海外事情研究所の丹羽文生准教授は言う。
「角福戦争を終戦に持ち込んだ人物。それは福田の書生だった小泉純一郎です」
小泉にとって福田は政治の師だった。1978年の総裁選予備選で再選を目指す福田が、田中の後押しを受けた大平正芳に敗れた時、小泉は悔しさの余り人目も憚らず泣いたほど。“日本列島改造論”を引っ提げて登場した田中は、道路建設で道路特定財源を編み出し、特定郵便局ネットワークを張り、老人医療や年金といった社会保障の充実に努めた。
以後、道路・郵政・厚生分野は田中派の系譜へと継承されるが、利権政治の温床という側面も生む。これにメスを入れたのが小泉だった。小泉は“聖域なき構造改革”を旗印に、道路特定財源の見直し、郵政民営化、社会保障改革を断行。明らかに田中の“負の遺産”を清算する作業である。
「対中外交も同じです。日中国交正常化を達成した田中以降、旧田中派系の大物政治家は中国との太いパイプを持ち続けました。小泉の度重なる靖国神社参拝に象徴される、中国との喧嘩腰外交は、そんな古い秩序を破壊に追い込むためのもの。柏崎刈羽をはじめ原発利権を握っていたのも田中でしたが、政界を引退した小泉が突如“脱原発”を口にするようになったのも田中への恨みがあるからかもしれません」(丹羽氏)
小泉の猛攻により、旧田中派主導の政治運営は絶え、ようやく角福戦争は幕を閉じた。
※SAPIO2016年2月号