【書評】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹/文春文庫/730円+税
【書評】大塚英志(まんが原作者)
さて、文庫になったところで今更、この小説を読み直してみる。これがゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を意識した教養小説として試みられているという当初の印象は変わらなかったが、宮崎駿『風立ちぬ』が堀辰雄ではなくトマス・マン『魔の山』を下敷きにしていることも含め、ドイツ型教養小説の奇妙なこの国での流行の意味は「国民の復興」とどこか地続きだとはおもう。だからこの小説が「歴史修正主義の寓話」として読まれるようにつくられていることは注意していい。
村上の小説は空虚で寓意を意図的に欠いた寓話から、ポリティカルな意味に読めなくもない寓話へと、ノーベル賞が喧伝され海外で唐突な政治的発言をするようになってから変化している。
「記憶を隠すことはできても歴史を変えることはできない」と幾度か作中で繰り返されるフレーズが現代文の入試の解答ふうにいえば「主題」なのだが、それでは修正され得ない正史とはこの小説が書かれたこの国の現在においていかなる寓意としてあるのか。
主人公の色彩を持たない青年が友人の女性をレイプしたという嫌疑をかけられ、しかし、レイプされたと主張する女性を守るため、彼は色彩の名を持つ仲間から一時切り捨てられる。
嫌疑は晴れるが、件の女性は何者かに絞殺されている。そして、主人公は夢で彼女を殺す夢を見て「ある意味」で彼女を殺したのは自分だと「責任」の所在を考える。この「ある意味」が曲者だ。
村上の小説では重要な行為は夢の中で誰か別の者が代行し(『ねじまき鳥クロニクル』)、「象徴的に」(『スプートニクの恋人』)行われる。そして主人公が成すべき行為(『海辺のカフカ』における「父親殺し」)から免責される。
この歴史への免責を求める態度、責任を負うようで負わないという主人公のスタンスが「私はアジア諸国から戦争の責任を問われているが正しい歴史ではない。しかし一般論としては責任を感じる」と近頃の誰かのように語っている「寓話」として読めるのは、さて誤読か。
※週刊ポスト2016年2月5日号