【書評】『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』/ジラルデッリ青木美由紀/ウェッジ/2700円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
明治期に東京帝国大学の教授となった研究者たちは、みな欧米へ留学した。と言うか、あちらで学んでこなかった者は、そもそも帝大の教授になれなかったのである。この因習をはじめてうちやぶったのは、工学部の助教授である伊東忠太であった。
忠太は一九〇二(明治三五)年に日本を旅だち、アジアの建築調査へでかけている。中国、インド、トルコの遺跡などを、三年にわたってしらべあげた。その最後に、アリバイづくりよろしく五カ月ほど欧米をまわり、日本へ帰っている。西洋一辺倒だった明治の学界にあって、アジアへこだわる希有な学者であった。
この本は、トルコで忠太がどのような調査をくりひろげたのかに、光をあてている。オスマン帝国時代のトルコだから、まだ今のシリアやエジプトも領有していた。その広い範囲におよぶ忠太の足跡を、ほりおこした本である。
時期的には、日露戦争ともかさなりあう。日本びいきのトルコ人たちに、忠太はどう対処したのか。ロシアの船へのりこんだ時は、ロシア人船員の前で、どうふるまったのか。日本の読者にはなじみのない、私も知らなかった戦時の中東情勢がかいま見え、興味深い。
著者は、イスタンブール在住の美術史家である。トルコの地勢や歴史にも、とうぜん通じている。オスマン帝国側の資料を駆使して、目新しい、あるいは新鮮な忠太像を、うかびあがらせた。のみならず、忠太がよりどころとしたトルコの日本人社会も、えがきだしている。まだ、正式な国交がなかった時代の、民間的な国際交流事情もうかがえ、勉強になった。
伊東忠太は、日本における建築史学のパイオニアともくされる。しかし、今、日本の学界は、世界史的なひろがりもある忠太の学問を、もてあましている。いっぽう著者は、忠太の歴史観がどうオスマン帝国でくみたてられたのかも、おいかけた。そして、そんな忠太の建築史が、二一世紀のトルコやヨーロッパで、見なおされだしているらしい。
※週刊ポスト2016年2月5日号