〈吉田松陰は山県有朋がでっちあげた虚像〉〈久坂玄瑞は天皇拉致未遂犯〉〈勝海舟は長州・摩に幕府を売った張本人〉と維新の志士をなで斬りにするベストセラー本の第2弾が発売された。新刊のテーマは、「欧米列強の日本侵略を防いだ男たち」だ。
『明治維新という過ち』(毎日ワンズ刊)は、作家・司馬遼太郎氏の著作などを通じて日本人に定着した長州・薩摩藩中心の「明治維新至上主義」の歴史観を否定、坂本龍馬や吉田松陰らの「実像」を明らかにし、歴史書としては異例の5万部超のヒットとなった。
その続編である新刊『官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート』(同)では、「明治維新の逆賊」として軽んじられてきた徳川の英傑たちにフォーカスしている。著者の原田伊織氏が話す。
「“幕末の三俊”という表現があります。岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順のことをいいますが、私はこの3人に川路聖謨(かわじ・としあきら)を加えて“幕末の四俊”だと思っています。いずれも特に外交で奮闘した優秀な官僚たちです」(以下、カギ括弧内は原田氏)
ペリーが1853年に浦賀に来航し、翌年に再び来航して日米和親条約を結んだ頃、ロシアも対日接近を図っていた。
1853年に長崎に来航したプチャーチンとの交渉に臨んだのは、勘定奉行で海防掛を兼務していた川路聖謨。川路は全権大使としてプチャーチンと渡り合った。
「幕府は外交交渉を援護すべき強大な軍事力を持っていません。一方、ロシアはアメリカ同様、それを背景に交渉に臨んでいる。川路は、軍事力に裏打ちされた国際関係の力学を十分理解しながらも、武家社会、日本の代表として徹頭徹尾、正論を押し通しました。その結果、ついに国境線の策定においてロシア側の譲歩を引き出しました」
プチャーチンは川路の交渉力に感服し、2人の間に信頼関係が生まれた。1887年には、プチャーチンが乗船していたディアナ号が沈没した時に世話になった伊豆の戸田村(現・沼津市)を彼の孫娘が訪ね、当時村人から受けた好意に感謝し、プチャーチンの遺言として100ルーブルを寄付している。
「優秀な徳川幕臣たちは、その知力と人間力を武器に欧米列強と正面から渡り合った。しかも、天皇の幕府に対する大政委任という政治上の大原則を一貫して崩さず、薩長を中心とした尊攘激派、いわゆるテロリストがわめく教条的な“復古主義”を徹底して排除したことで、この国が二元政治状況に陥ることを辛うじて防いだ。彼らのおかげで幕末日本は欧米列強の侵略を防ぐことができたのです」
※週刊ポスト2016年2月5日号