【書評】『花の忠臣蔵』野口武彦/講談社/2200円+税
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
本書は『日本誌』の著者ケンペルが瀬戸内から赤穂城を眺め、藩札が流用している現実に驚くところから始まる。ともかく人口稠密の江戸を見物し、千代田の城に上がって将軍綱吉に目見得をしたドイツ人も、お上の御威光で金はどこからでも入ると思い込む侍たちの消費感覚には驚愕したことだろう。
この太平の世で起きた赤穂義士の吉良邸討ち入り事件は、幕府の法と秩序観を揺るがすものだった。執政だった柳沢吉保は伊達に大学者の荻生徂徠を500石で抱えていたわけでない。
徂徠は、義と法、私と公という鮮やかな法概念を駆使して、武士の名誉たる切腹刑で世上の不満を抑え、義士たちの面目も保ち、幕府の権威を守った。読者が驚くのは、義士預かりの大名家が遣わした引き取りの武士数の多さだ。細川家750人、松山松平家300人、長府毛利家200人、岡崎水野家150人、都合1400人。
著者は、討ち入りをめぐる緊張感の密度がいちばん濃かった場所は、討ち入りの翌日の深夜、義士をひとまず一括預かった愛宕下の大目付仙石伯耆守邸の周辺にあったという。松平家の波賀清太夫のように、上杉から追手がかかることを覚悟して、ござんなれという気分で待機していた武士(もののふ)も多かったはずだ。しかし、上杉は動かなかった。藩主の実父の仇をとろうとしなかった時、「元禄」は確実に終焉したのだ。
かなわぬまでも、赤穂義士の驥尾(きび)に付して、今度は俺たちの番だ、上杉よ必ず来い、と武者震いをしていた者もいただろう。野口氏の本を読んで忠臣蔵人気が日本人に根強いのは、誰もが波賀のような気分になって、義士や仇討に嫉妬や憧憬の念を持つからではないかと考えた。
野口氏にも、私にも、誰にも、心中どこかに波賀清太夫の気持ちに入り込む部分が潜んでいないとは断言できない。江戸時代から現代までずっと、赤穂義士の心中に切ないほど同化できるのが日本人のアイデンティティというものなのだろう。
※週刊ポスト2016年2月12日号