首都圏の私立中学の受験がほぼ終わった。受験生はもちろん、疲れ果てた親の姿がそこにはある。コラムニストのオバタカズユキ氏が考える。
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私が育った千葉県の新興住宅地には、歴史や文化を感じさせるものがなく、東京で働くサラリーマンが寝るための家と、がんじがらめの管理教育の学校と、そこに通う子供の面倒をみる専業主婦がいるだけだった。
もちろん、商店の家も働く母も、反発して暴走族になる子供も混じってはいたが、大多数は金太郎飴のような「千葉都民」だった。零細卸問屋の息子である私は、千葉都民の千葉都民による千葉都民ための町に馴染めず、早く他の土地に出たくて仕方がなかった。
そして、東京の同じ町に住んで30年以上になる。千葉のあの町に比べれば、圧倒的に居心地がいい。歴史や文化に満ちており、さまざまな知的職業人が行き交っている。中卒や高卒の職人もけっこういるが、彼らには己の腕一本で食っているプライドがある。みんな目的なく群れることを好まない。こうした個人主義的な風土は、私のような外れ者には都合がいい。
しかし、だ。東京には居住地として大きな欠陥がある。たとえば、教育環境がそうなのだ。東京は子供が育つ土地として歪んでいる。特に都心部は病んでいるとすら思う。
私が住んでいる町はぎりぎり山手線の内側だ。今年、近所の公立小学校の6年生は、その6割ほどが私立中や都立中に行く。もう少し都心寄りの隣町は文教地区で、私立進学率8割、9割にのぼる。地元の公立中に進むのは余程親に「私立中は無用」という信念があるか、経済的に苦しいか、どちらかの場合のみである。
そのような町で、「中学受験をしない」と親が腹を括ることはとても難しい。それなりのレベルの中学に行かせたければ、小学3年生の2月からの通塾が基本形となる。
小学3年生2月段階で、子供たちの年齢は9歳か、8歳だ。成長の早い女の子の中にはしっかり者もいるが、男の子のほとんどにはまだ幼児性が残っている。自分から将来をどうしたい、といった希望、主体性があるわけもない。中学受験は、ほぼすべて親の意向で始まる。
最初は親の意向でも、〈なんだかんだ乗り越えていくうちに、自分の意志でゴールに向かうようになる。きれい事じゃなくて、受験が精神的な成長の機会となりえているケースも多いはずだ〉と、当サイトの1月30日掲載コラムで書いた。中学受験を児童虐待のように見る向きもあり、それは違うよ、という意味合いを込めたつもりだ。
ただ、こうも思っている。中学受験は、保護者虐待だ、と。言葉遊びをしたいのではない。地域環境的に「中学受験をしないわけにはいかない」親たちが、我が子の中学受験のためにかける労力の膨大さを思うと、それはやっぱり行き過ぎだと言いたくなるのである。