韓国第2の都市、釜山。その郊外に位置する山あいの村には、「日本人の墓石」を建材として使った家が立ち並ぶ。何があったのか。
釜山駅から南西約3km。きつい坂道を登っていくと、その村は突然現れる。
隣の甘川洞文化村は地区全体をアート振興地域として売り出しているモダンな村だが、こちらの「西区峨嵋洞地域」は迷路のような路地が入り組んでいて、それとは一線を画している。
「西山家之墓」
路地の縁にある段差には、一目見て墓と分かる石が埋め込まれていた。注意して見ると、家の基礎や塀などあちこちに墓石が使われている。プロパンガスや植木鉢などの台にされた墓もある。交番も、墓石の上に建っていた。
実は、この地区の多くの家には、日本人の墓が建材として使われている。古くから住む住民によると、一帯には、日本統治時代に住んでいた日本人の墓を中心に300基ほどの墓と火葬場があったという。1950年代初めの朝鮮戦争の際、北部から避難してきた人々がこの地に住んだ。貧しく資金も建築資材もなかったため、墓石を土台に家を作ったり、路地の階段に使ったりした。
かつて同地区を取材した経験を持ち、近著『禁断の現場に行ってきた!!』でレポートしたライターの村田らむ氏は、「現地は観光地化していて、韓国各地から観光客が訪れていました」と語る。
一帯を歩くと、墓石の上に家が建っていることをモチーフにした、ゆるキャラ(?)まで作られていた。「墓石の村」をアピールしているようだ。
日本人にとってはにわかには信じがたい感覚だが、西区創造都市課のパク・プヨン主務官はこう説明する。
「この村は、朝鮮戦争の時に避難してきた人々が辿り着き、貧しさから住み始めた場所です。日本人には、そんな歴史的な経緯を理解して欲しいと思います。住民の中には、日本人に申し訳ないという気持ちから供養を続けている人も多い。この地区は、文化的な遺物として再整備していく予定です」
住民によれば、「昔の人も、日本人が憎くてやったわけではない。生き延びるために、仕方なく墓石を使わせてもらった。私も年に何回か、献花しています」という。
歴史の爪痕が、こんなところにも残っていた。
※SAPIO2016年3月号