東日本大震災から5年。被災者たちはどんな時間を過ごしていたのだろうか。全校児童108人のうち74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の生存者である只野哲也さん(16才)の5年間について、ジャーナリストの加藤順子さんと池上正樹さんがリポート。現在、石巻市では大川小の旧校舎を「震災遺構」として保存すべきかどうかの議論が本格化しているというが…。(撮影:加藤順子)
【集中連載第2回/全4回】
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地元では、大川小について複雑な心境を抱えたままの人も多く、大人でも話題にすることが難しい。地区住民でつくる復興協議会も2012年秋には校舎についての話し合いを中断していた。校舎の遺構化について口火を切ったのは、他でもない哲也さんだった。2013年秋、中学2年の時だった。
まだ小学生だった被災直後から校舎を遺す意義を取材で口にしてきた哲也さんだが、子供の人権に取り組むNGOに東京に招かれ講演した際に、「ぼくの先輩や後輩が、ここで生きていたという証」である校舎を震災遺構とするよう訴えたのだ。
この発言は、全国ニュースでも放送され、校舎の保存を希望する他の卒業生たちを動かし、意見を表明する活動のきっかけとなっていった。哲也さんをそこまで突き動かすこれまで見てきた景色とは、どんなものだったのか──。
当時、学校にいて生還できたのは、児童4人と教務主任だったA教諭のみ。しかし、あの日の様子を語り続けてきたのは、哲也さんだけだ。
哲也さんは大勢の友人の他に当時3年生だった妹の未㮈ちゃんと母親のしろえさん、祖父の弘さんの家族3人を亡くした。未㮈ちゃんは同じ大川小にいて犠牲になった。
地震の後の校庭には、全校生徒108人のうち、保護者などが引き取りに来て学校を離れた児童や欠席・早退などを除く子供たちがいた。校庭のすぐ裏には、子供たちが授業で登っていた山があった。「6年生が先生と言い合ってるようだった」と哲也さんは証言する。先生たちは校庭の前で話し合いをしていた。
地震が起きてから津波が来るまでの約50分間、新北上川沿いにある標高わずか1mほどの低地の学校で、防災行政無線のサイレンが鳴り響く中、子供たちは教師たちと、校庭に待機し続けた。なぜ山があるのに1mでも上に逃げなかったのか。