【書評】『リベラルですが、 何か?』香山リカ 著/イースト新書/861円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
小林よしのりが歴史教科書問題に前のめりだった時期、盛んに言っていたのは「マルクス主義」に替わる「おはなし」を彼らの陣営はどこに見出していくのか、ということで、成程、ポストモダニストたちが「大きな物語」の終わりを理屈の上で説いたところで人はそう簡単にそれを捨てきれないことに例外的に気がついているのだ、と思った記憶がある。
オウムの幹部たちが麻原の語る「大きな物語」にいともあっさり回収された脆弱なポストモダニストだったことも、終わったはずの「大きな物語」を村上春樹も中上健次も宮崎駿も『ガンダム』もサーガという形で劣化版として1980年代からこちら側、語り続けてきた時点でポストモダンなんか一度たりともやってこなかったことも散々、繰り返し言って来たと思う。
決定的だったのは、湾岸戦争に冗舌だった文学者が沈黙した9.11でCNNが多国籍軍を「クルセイダーズ」と呼んだ瞬間、せっかくデュルケムの言うところの脱呪術化した近代があっという間に神話と魔法の「大きな物語」に収斂されたことだ。
世界は再神話化されてしまった。だから本書における、「物語は終わった。80年代ニューアカに出自を持つ歴史は終わった、という“物語”」を弄んだことが今日のリベラルの衰退の原因だという香山さんの指摘は、全くその通りだ。そして「運動」に身を投じる香山さんを嗤うつもりも毛頭ない。
だが、歴史修正主義でも絆でもない、まして、「矮小な物語同士」の不毛な戦い(イスラム国から慰安婦問題まで全てがそうだ)でもなく、「運動」の先に安倍政権の「空疎すぎる物語」に対峙するどういう歴史の見取り図を「憲法」という最もパブリックな言葉で有権者が描き出せるのか。
去年、ニコ生の「憲法番組」で、左翼から右翼へという身も蓋もない席次で香山さんより左の席を用意される光栄に浴したぼくが席を途中で立ったのは単に司会の田原総一朗の惚け方に辟易したからだが、そこにぼくと香山さんとの距離が多分、今も、ある。
※週刊ポスト2016年3月18日号