【書評】『豊田章男が愛したテストドライバー』稲泉連/小学館/1728円
【評者】森健(ジャーナリスト)
トヨタの話で涙腺が緩ませられるとは思わなかった。本書はクルマに比類なき愛情と熱情を注ぎ込んだ“職人”師弟の話である。
ただの師弟関係ではない。師匠は臨時工で入社した老兵のテストドライバー成瀬弘。弟子はその会社、7万人の社員を抱えるトヨタ自動車の御曹司で社長の豊田章男。会社の身分は異なる二人だが、職人魂に惚れて章男は成瀬のもとへ通いだす。
さまざまな走りを試すことで微妙な運転感や走り心地を追求する。そんな仕事をする成瀬の仕事ぶりに章男は驚き、心酔していく。そこからただ創業家の豊田章男ではなく、心底クルマ好きな人間になっていく。
二人の合言葉は「人を鍛え、クルマを鍛える」。クルマをつくり、運転するとはどういうことかを理解していく中、スポーツ車技術の粋「レクサスLFA」の開発にのめり込んでいく。そして次期社長という身にして、ドイツでの24時間レースにも参加していく。それは経営の数字だけを見ず、一ドライバーとしてクルマを愛する社長の成長でもあった。
だが、米国でのレクサス事故に伴う騒動がまだ残る中で、その師匠は突如事故で逝去する。章男は千々に乱れる心のまま、経営業務をこなし師匠の弔いに向かう。その言葉は二人の長い歩みを踏まえて読むと、心を揺さぶらずにはおかない。
舞台はトヨタだが、本書で描かれるのはビジネスではなく、男の魂のせめぎあいと成長だ。身分を超えた心の綾を著者は長い取材の中で明らかにしていく。なにより本書を能弁に語っているのが表紙の写真だ。この二人の表情こそが著者の5年間の取材を裏打ちしている。
※女性セブン2016年3月31日・4月7日号