日本の戦後復興に大きな役割を果たしたのが在日韓国・朝鮮人である。表の政財界だけでなく、裏社会にも、彼らの存在は大きな役割を担っていた。在日三世のジャーナリスト・李策氏が深層を綴る。
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日本のヤクザの3割が在日。ネットで検索すると、かつて「ある識者」が無根拠に語ったこの言葉が、今も大量に電脳空間を漂っている。一方、これがいかに荒唐無稽な言説であるかを客観的に論破した主張も見かけるので、ここで屋上屋を架すことは敢えてしない。
ただ、1980年代に東京の朝鮮高校に通った私の同期男子(約200人)の中に、「本職」のヤクザとなった者が皆無であることは、本稿にとって意味のある事実なので念のため述べておこう。在日韓国・朝鮮人(以下、在日)のヤクザは、総数としてはかなりの少数派なのだ。
さて、私は決して、ヤクザの世界における在日の存在感の大きさを否定したいわけではない。逆に、それはある時代や立場に限定すれば客観的な事実だと思っている。
参考になるのが、警察庁発表の「平成26年の暴力団情勢」だ。山口組の分裂や極東会会長の引退が反映されていないデータではあるが、近年の趨勢は分かる。
これを見ると、全国の指定暴力団21団体のうち、明らかに在日の名を持つ親分に率いられた組織は5団体。そして、これら21団体の構成員は2万を超えるが、そのうちの2割弱が在日の親分に従っている構図だ。日本の総人口に占める在日の比率が、戦後に帰化した者まで含めてもせいぜい1~2%前後であろうことを考えると、「親分の在日比率」はかなり高い。
また、分裂した山口組の双方の組織において在日の幹部が枢要な地位を占めているのを見ても、この世界における在日の“出世ぶり”が顕著だ。では、その理由はどこにあるのか。
よく言われるのが、日本社会のアウトサイダーとしての“向こう見ずさ”である。民族差別と貧困の中で「学歴と就職」による成功の道を断たれ、己の度胸と腕力に頼るしかなかったとする物語だ。
たしかに、現在の老ヤクザたちが若かった頃には、そういった社会的背景があった。そして、在日ヤクザの“向こう見ずさ”の象徴的存在が、約100人の敵陣にわずか8人で殴り込み、「殺しの軍団」の異名を得た柳川組の柳川次郎(ヤン・ウォンソク)元組長だろう。
しかし、向こう見ずで暴力的なだけでは、ヤクザの世界では必ずしも大きくなれない。
山口組事情通によると、かつてこんなことがあった。
「1981年から翌年にかけて、三代目の田岡一雄組長と山本健一若頭が相次いで病死し、四代目跡目問題が浮上しました。このとき、『朝鮮人が山口組をおかしくしている』という内容の書かれた怪文書が出回った。最高幹部のある1人を指したものでした」
このとき彼が攻撃対象となったのは、彼がかつて明友会に所属していたからにほかならない(彼は、在日出身であることを否定している)。
明友会は1953年ごろ、大阪・鶴橋駅の高架下にあった国際マーケットを根城に、在日の若者を主体に結成された新興愚連隊で、間もなくミナミにも進出。急速に勢力を伸ばし、構成員1千人を豪語した。
ところが1960年8月、山口組との抗争がぼっ発するや、明友会はたった2週間で壊滅してしまった。
両者の差は、「組織力」にあったとされる。日本の社会に根差した歴史あるヤクザ組織に、差別や貧困に対する刹那的な激情を共有しただけの愚連隊はかなわなかったのだ。