日本各地には、人の立ち入りを拒むいくつもの「結界」が存在する。中には、「女だけ」「男だけ」をそれぞれ排除する聖域もある。たとえば、ある時代までは、山そのものが「女人結界」とされ、仏教の聖地である高野山や比叡山も「女人禁制」だった。
霊山や寺社における女人禁制は明治5年に解除された。明治政府の神仏分離政策の流れの中で、神仏混淆の修験道に廃止令が出され、仏教や神道のありかたも一変した。ただし、女人結界を解いた理由は世俗的だった。
明治5年に日本初の大規模な博覧会が京都で開催されることになり、多くの外国人の来賓が京都を訪問し、比叡山への来山も予定された。文明開化の日本で、女人禁制の場があり、「遅れた慣習を持つ日本」という悪いイメージを外国人に与えないようにするのが解禁の理由だった。
もっとも、表向きはそうであっても、明治政府は巨大な既得権益をもつ仏教寺院や修験道を解体するには、女人禁制の解除が効果的だと考えたふしもある。問題は、これが歴史や伝統も鑑みた綿密な検討によってなされたわけではないということである。行き当たりばったりの決定は当然、各地で強い抵抗にあう。
結局政府はその後、宗規に委ねると通達し、女人禁制の存続・廃止は各宗規で決定できると解釈された。その結果、明治の間に急速に女人禁制は姿を消す一方、一部では残るということになった。
文/鈴木正崇(慶應義塾大学名誉教授)
※SAPIO2016年4月号