【書評】『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』ファブリツィオ・グラッセッリ・著、水沢透・訳/パブラボ/1000円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
日本人は、強い自己主張をきらう。まわりとの調和を大事にする民族だと、よく言われる。和をもって尊しとする。そんな国民性論を耳にすることも、ままある。
しかし、街並みと建築に関しては、この一般通念がまったくあてはまらない。市中のビルは、街全体の統一感に気づかうことなく、てんでんばらばらの色や形で、たっている。隣接する建築群の顔色をうかがって、自分のデザインをととのえたりも、まずしない。建築の表現については、地権者や建築家の自由が、ほぼ完全にまもられている。
くらべれば、ヨーロッパ諸都市のほうが、ずっと不自由である。あちらのビルは、都市景観のなかに表現を埋没させるよう要請される度合いが強い。きわだつ自己表現は、おおむね禁じられている。
日本の社会科学は、これまでずっと言いつづけてきた。西洋は近代的な自我を開花させたが、日本は集団主義に流されやすい、と。街並みをめぐっては、まったく正反対の命題がなりたつにもかかわらず。社会科学は都市景観から目をそむけてきたのだと、そう言わざるをえない。
著者はイタリア人で、在日二〇年におよぶ建築家である。その体験をつうじ、こう言いきる。日本には、ヨーロッパだと考えられない建築表現の自由がある。「ヨーロッパの国々から見たら、ほとんど『何でもあり』の状態だ」。
と言っても、そんな自由を著者はうらやましがっているわけでは、けっしてない。日本びいきの著者は、大好きな日本のために、この野放図な自由をなげいている。そして、日本の都市計画家たちに、さまざまな提言をこころみる。こうすれば、日本の都市ももっと美しくなるんじゃあないか、と。
私じしんは、こういう提案を聞かされても、あまりふるいたたない。たぶん無理だろうなと、悲観的にうけとめる。ただ、近代化の過程で、どうして日本がこうなってしまったのかは、つきとめたく思う。歴史家の端くれである私をはげましてくれた一冊である。
※週刊ポスト2016年4月8日号