役者を目指しながら歌手に転身した上條恒彦は、歌った曲が大ヒットし、ドラマ主題歌もまかされることとなった。主題歌を歌ったことから役者の仕事も始まった当時の出来事について上條が語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏が綴った週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』からお届けする。
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一度は役者の道を諦めて歌手となった上條恒彦は1971年『出発の歌』が大ヒット。翌年の『だれかが風の中で』は市川崑監督のテレビ時代劇『木枯し紋次郎』(フジテレビ)の主題歌となり、上條は短い出番ながらも同作にゲスト出演している。
「市川先生と初めてお会いしたのは『だれかが風の中で』のレコーディングの時でした。
『どこかでだれかが』と歌って、ブースへいくと、聴いていた市川先生が『上條ちゃん、もうちょっと下手に歌えないか』と言うんですよ。その時、僕は監督の言わんとしていることをすぐに理解することができました。
初めてのテレビドラマの主題歌ということもあって、力こぶ作って朗々と立派に歌っちゃったんですね。でも、先生は『紋次郎はそんな立派じゃないんだよ』と言っておられるんだと気づきました。それで歌い方を変えたら、『よし、それでいこう』と仰ってくださって。
出演したのは、歌がヒットしたのでレコード会社の宣伝部が『上條さん、ゲストに出なくちゃ』って。みんなが楽しみにしているから、断るわけにはいきませんからね。京都に行く前の晩は緊張して眠れませんでした。
現場では失敗ばかり。髭を生やした大声の男がドジをやるものだから、スタッフも中村敦夫もみんな笑っちゃって撮影が止まるんですよ。当時は『失敗して苦しんでいるのに、なんて冷たいんだ』と思いましたが、実は僕をリラックスさせようとしてくれていたんだと思います」
本格的な俳優仕事は、山田洋次脚本の1973年の連続ドラマ『遥かなるわが町』(TBS)だ。