【書評】『橋を渡る』吉田修一著/文藝春秋/1800円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
橋を渡る──何かを越えて向こう側にいくことの比喩でもある。越えたいのに越えられない、あるいは越えるべきでない一線を、人間はごくなにげない瞬間に越えるのかもしれない。わたしたちは皆、どこかに淡い狂気を抱えている。うっすらと狂っている。
本書は春・夏・秋・冬の四部に分かれ、部ごとに違う人物が出てくる。各部の人々をゆるやかに結びつけるのは、たとえば、都議会議員による「産めないのか」ヤジ騒動、マララさんのノーベル平和賞受賞、iPS細胞に関する画期的研究成果、二回目の東京オリンピック開催といった、私たちの知る現実のできごとである。
少なくとも「秋」まで、各部の繋がりはごく薄い。都議のヤジが散々批判された次の部に、都議の夫と主婦の妻が登場し、ここでこの妻から連日クレームを入れられている週刊誌の記者が、次の部で主人公の同窓生として出てくる程度だ。
不穏な暗示や符号が時々顔を出す。平凡な日常のひとこまに、脈絡もなく、「ここにないはずのもの」が甦ったり、迫ってきたりする。過去に見た光景、聞いた声、嗅いだ匂い、それとも夢想、妄想、錯覚……。そんなとき、心に何かが兆し、人はゆらりと境を跨ぐのかもしれない。
ある者は夢で、自分が人を殺したことを突然思いだす。あるいは、夏の夜に神宮球場の上にあがった花火がフラッシュバックする。ある妻は、喧嘩で夫が殴られている声を夢うつつに聞く。彼女が夫を許せないと決めたのは、大きな不幸が降りかかるよりずっと前の、この時だろう。
最終部だけが七十年後のSF的設定で書かれ、ばらばらだったピースが意外なところに嵌って一つの大きな群像劇となる。そこにあるのは、無数の「ふつうの人」が無数の小さな決断を下し、道を選び、橋を渡った結果、築かれた世界だ。機械化され、合理的で、人にやさしく、同時にとてつもなく残酷な管理社会。カズオ・イシグロの小説をも思わせるこの巨大な未来は、ありふれた一歩の集積によって出現したのだ。
※週刊ポスト2016年4月29日号