自殺幇助(ほうじょ)が合法化されているスイスで、ジャーナリストの宮下洋一氏は、患者ではない、もう一方の当事者に目を向けた。宮下氏による国際情報誌『SAPIO』(2016年5月号)掲載のルポルタージュから、スイスの自殺幇助団体ライフサークル代表のプライシック女医に、なぜ、この仕事をしているのかについてお届けする。
* * *
プライシック女医(58)との出会いは、1月21日午後2時以降という曖昧な約束で始まった。電話番号を知らなかったこともあるが午後6時を回っても音沙汰もない。最悪な取材の幕開けだ。電話が鳴ったのは午後7時。 「どこにいますか。今夜8時以降なら会えます。忙しくて長く話せないので、バーゼル郊外まで電車でこれます?」
いささか戸惑いながら、約束した駅にほど近いレストランに入った。すると駐車場に白い車でやってきた彼女がいた。赤いジャンパーとジーンズ姿の彼女は微笑み、悪びれずにこう言う。
「さあ、私の自宅まで行きましょう」
マイナス6度と冷えたその夜、真っ暗なバーゼル郊外を数十分車で走り、3階建の大きな石造りの一軒家に辿り着いた。きれいに掃除されたリビングに入ると、90歳は越えていそうな男女がドイツ語のドラマを見ていた。
まさか、この老人たちも、いつか女医の手でこの世を去るのだろうか、と訝っていると、そんな疑念を察したのか、「私の夫の両親ですよ」と語る。
彼女は私にコーヒーを入れ自らのカップに紅茶を注ぐと、予想だにしない言葉を口にした。
「(さっきは)男性の自殺幇助をしていたの」
この時点では、彼女の具体的な職務を理解していない私は、彼女の言葉を疑った。無表情のまま「自殺を手伝った」というのである。
「とても良い死に方でね。彼は末期癌のドイツ人患者でピアニスト。結婚はしていなかったようだけど、大切な友人に見守られながら息を引き取ったわ」
まるで病院で患者を看取ったかのような口調だった。私は言った。あなたの職業を具体的に教えてくれますか?
「普段はホームドクターとして働いています。さまざまな病気を持つ人々の診察を彼らの自宅で行うの。老衰の老人でも、介護施設に頼らずに自宅で最期の時を送ってもらうわ」
この手の話は、日本でも議論されている「病院で死ぬか、自宅で死ぬか」の部類に入る。彼女は、老人を薬漬けにして病院で延命させることには反対らしい。では、その延長線上として、なぜ自殺幇助の仕事をしているのか。