【書評】『豊田章男が愛したテストドライバー』/稲泉連著/小学館/本体1600円+税
稲泉連(いないずみ・れん):1979年東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。著書に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫、大宅壮一ノンフィクション賞)、『ドキュメント豪雨災害 そのとき人は何を見るか』(岩波新書)など。
〈運転のことも分からない人に、クルマのことをああだこうだと言われたくない〉
〈月に一度でもいい、もしその気があるなら、俺が運転を教えるよ〉
今から15年ほど前、トヨタ自動車の創業家の御曹司である豊田章男に対し、一社員の立場でありながら大胆にもそう言い放った男がいた。自動車業界で知る人ぞ知る〈伝説のテストドライバー〉成瀬弘。本書は、その成瀬の歩んだ道を辿り、成瀬と豊田との「師弟関係」を描いたノンフィクションだ。
実際に豊田は、役員としての業務のない土日、サーキットでレーシングスーツを着てスポーツカーに乗り、成瀬の指導のもと時速300km超の高速走行まで体験する。レースにも出場するようになり、世界的に有名な海外の耐久レースでもハンドルを握った。
豊田はもともと大のクルマ好きだったが、成瀬とのそうした日々を通し、クルマの何たるかを一から学んでいった。〈クルマへの思いを本気にさせる伝道師〉とは、成瀬を語った豊田自身の言葉である。
豊田は2009年に社長に就任する。その直前、リーマンショックの影響で会社は59年ぶりに赤字決算となり、レクサスの暴走事故を巡り、翌年、豊田はアメリカ下院の公聴会での証言を求められる。新社長の船出はかくも苦難に満ちていた。その時期、豊田を精神的に支えたのが成瀬から学んだクルマへの思いだった。
本書の主人公は成瀬だが、むしろ、一介の社員を素直に師と仰ぎ、胸の内の思いを隠さず吐露する豊田の姿が人間味に溢れ、魅力的に映る。本書が引用する、豊田が成瀬を語った2つの文章が感動的だ。経営者の実像を描いた異色のノンフィクションとして面白く読める。
※SAPIO2016年5月号