まだこの本を読んでいない人は、幸せかもしれない。このたび、第13回本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』には、「あきらめないこと」や「誠実であること」の大切さが美しい文章で描かれている。それは、著者・宮下奈都さんが「こうありたい」と願いを込めて綴ったものだ。決して良いことばかりではない人生を歩んでいく中で、この作品はきっとあなたを支えてくれる──。
(取材・文/佐久間文子)
* * *
『羊と鋼の森』は、宮下さんがピアノの調律を頼んでいる調律師さんから聞いた「いい羊がいます」という言葉が始まりだった。ピアノの鍵盤を叩くと内部のハンマーヘッドが弦を打ち、音が鳴る。ハンマーのフェルトが羊の毛、弦が鋼でできていることからタイトルはつけられている。ちなみに、北海道の森で育った主人公の「外村」という名前は、トムラウシ(註:アイヌの言葉で「花の多い場所」の意味。大雪山公園内のトムラウシ山という山がある。宮下さんの家族はそのトムラウシ山のふもとで1年間暮らした)からとられている。
偶然、耳にしたピアノの音に惹かれて調律師をめざした外村のように、ピアノを習った経験がなく調律師になる人は、多いそうだ。「無駄なことって、実は、ないような気がするんです」――先輩の言葉をメモに取り、事務所のピアノの調律を毎日、繰り返す、素直でねばり強い外村の成長ぶりは、読者へのあたたかな励ましにもなる。
「人を励まそう、という気持ちはなくて、逆に書いている自分が励まされていた気がします。私自身、36才で初めて小説を書いて、この年で新しく好きなことを見つけられるんだ、という驚きが実体験にあるので、そういう気持ちが出てくるのかな」
自分が書いたせりふに、自分で驚くこともあるそうだ。
「こんな言葉、自分じゃ思いつかないな、って思うせりふを書くと、これは本当に登場人物が言ったんだな、って思いますね」
派手な、脚光を浴びる場所ではないところで働く人に、宮下さんの目は向けられる。
「地道に暮らしている普通の人に光がさす瞬間、がんばって、ほんの少し先が見えた瞬間を私は書きたいなあって思うんです。誰かのひとことで1週間うれしかったり、ささやかなんだけどそういうことが、それがあるから生きていける、つかまる杖のようななにかになりますよね」
『羊と鋼の森』を書き上げたあと、しばらく小説を休んでいる。
「今は変わり目で、自分が揺れているんだと思います。体調が悪かったり、『羊と鋼の森』で、書き切ったという感じがあったりして、自分でも気に入っていた連載中の小説が、“本当に書きたいのとは少し違う”とふっと気づいて。年をとっているせいもあって、ここで焦ってもしょうがない、少し休んで考えてみようと思いました。ささやかなことを書きたいというのはこれからもたぶん変わらないと思いますが、少し違う要素も入ってくるんじゃないかな、と自分でもドキドキします」
※女性セブン2016年5月12・19日号