【書評】『謎の女 幽蘭 古本屋「芳雅堂」の探索帳より』出久根達郎著/筑摩書房/1700円+税
【評者】坪内祐三(評論家)
出久根達郎の新著『謎の女 幽蘭』を通読してうならされた。この作品は筑摩書房のPR誌『ちくま』に連載されたものだが、最初の三~四回に目を通して、どのような物になるのか予想出来た。
明治時代に本荘幽蘭というモダンガール(職業婦人)がいて、当時の名物女性だったのだが、その詳しいことは明らかでない。出久根氏同様私も彼女のことを知ったのは新劇俳優で大の古書通、資料マニアとして知られた松本克平の『私の古本大学 新劇人の読書彷徨』(青英舎・昭和五十六年)によってだ。今から三十年近く前。
しかし私の幽蘭に関する知識はそれだけだが、出久根氏は松本氏の一文をきっかけに幽蘭の調査をはじめて行く。その成果が本書なのだろう。と思っていたのだが、違った。幽蘭とは何者かを探り当てたらそれはそれで労作だが、そんなものではない。もっと大きなスケールを持っている。
この作品を読んで私は『渋江抽斎』にはじまる鴎外の史伝三部作を思い起こした。『渋江抽斎』はいちおう渋江抽斎が主人公のようでありながら、メインのテーマは抽斎の実体をつかまえようとするアプローチにある。
史伝三部作の第二部『伊沢蘭軒』で鴎外は、「素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維れ谷まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ」と述べているが出久根氏の筆致も「無態度の態度」で、それが素晴らしい。
有名無名を問わず様々な人、そして東京を中心に様々な場所が登場する(バブル直前の東京の変貌を描いた作品としても優れている)。様々な人、と書いたが、『医心方』巻二十八房内という一種のエロ本を覆刻した「単行本がユニークであったのは、東京芸術大学の高田正二郎筆による体位図を添えたことである」という一節に驚いた。何故なら高田正二郎は私の祖母の妹の旦那だから。
※週刊ポスト2016年5月6・13日号