戦争が終わって半年余りの1946年4月、まだ敗戦の傷跡が生々しく残る日本。見渡す限りの焼け野原に家を失った人々や孤児が身を寄せ、食糧難で餓死者が続出した。誰もがお腹を空かせていたこの時、各地で声を上げ始めたのは女性たちだった。
その前年に衆議院議員選挙法が改正され、女性の参政権が初めて認められた。この時代を経験した女性の証言集を作成したNPO法人「一冊の会」の大槻明子会長(81才)が語る。
「1人1票を与えられた女性たちは、自分が一人前の人間として認められた気がして、とてもうれしかった。貧しいなかでも精一杯の一張羅を着て、ウキウキしながら投票所に出かけた女性が多かったそうです。みな、“女性が生きていける政治をしてほしい”という思いでした」
長い戦争が終わり、ようやく平和が訪れた。大切な夫の、子供の、親の、友達の命を奪い去る戦争はもう嫌だという思いと、男女同権で平和な世をこの手で築きたいという思いを女性は抱いた。それゆえ、彼女たちは貧しくても明るく前向きだった。
証言集で、ある女性は当時をこう振り返っている。
《初めての女性の選挙権に村中の女性が沸きかえっていました。お祭り気分で、同窓会みたいに「投票所で会いましょう」と喜び合っていた。本家では赤飯を炊いて祝った》
戦前は男尊女卑が強く、女が意見を表明することなど考えられなかったが、戦争が終わると女性たちが立ち上がり、「飢えている国民に食べ物を!」と選挙に立候補した。その数、実に79人。国民は戦後初の総選挙に熱狂し、街頭演説はどこも押すな押すなの賑わいだった。
「女性も選挙に出られると知ってうれしかったけど、大阪ではなかなか女性の候補者が現れず、落ち着かなかった。居ても立ってもおられず、ついに“私がやったる!”と出馬を決意したんや」
70年前をこう振り返るのは、兵庫県在住の佐藤きよ子さん(97才)だ。戦前、大阪の釜ヶ崎でアパートを経営していた彼女は、関西の女性の目をさますため26才の若さで出馬を決意した。公約は「食糧の確保と1人3畳の住まい」。遊廓があり、ヤクザがたむろした釜ヶ崎を「正義の女性」というのぼりを持って練り歩き、街角のゴミ箱を倒して、その上に乗って選挙演説をすると、路上生活者や遊廓の女性からヤンヤの喝采が送られた。
「選挙資金の1万5000円は自腹で、マイクも自転車もなく、古着のズボン姿で選挙区を練り歩いた。“どこの馬の骨かわからない小娘だけど、釜ヶ崎の人のために頑張る。この気持ち一本で体当たりしています”と訴えると、演説中に聴衆がボロボロと泣きだしたんや」(佐藤さん)
女性たちがどれほど政治に期待をしていたかわかるだろう。釜ヶ崎から飛び出したおてんば娘の熱意は有権者に届き、全国有数の激戦区で当選を果たした。
この選挙では、佐藤さんの他、婦人運動家の加藤シヅエさんや後に妻子ある代議士との恋愛が「白亜の恋」と話題になる園田天光光さんら39人の女性議員が誕生している。
作家の瀬戸内寂聴さん(93才)は当時23才。そのときの喜びをはっきりと覚えている。
「立派な女性がそろって当選して、本当にうれしかったですよ。戦前は男がいくら女をつくっても、女が男をつくってはいけないという時代でしたからね。私はセックスにおいても何においても男と同権になりたいと思っていましたから、それが認められたのがうれしかったんです」
※女性セブン2016年5月12・19日号