朝日新聞主筆を務めた若宮啓文氏(享年68)が4月28日に亡くなった。日中韓3か国のシンポジウムに出席するために滞在中だった北京のホテルでの客死だった。若宮氏といえば、思い出すのはあのコラムだろう。
2005年3月27日付の朝日新聞コラム「風考計」に掲載された「これを『友情島』に……の夢想」である。
2005年3月16日、島根県議会で毎年2月22日を「竹島の日」とする条例が成立した。これについて若宮氏は、日韓関係の悪化を懸念し、コラムで〈例えば竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、いっそのこと島を譲ってしまったら、と夢想する〉と書いたのだ。
国土を他国に手放してしまえという暴論は大いに物議を醸した。批判の先頭に立っていたのが作家の井沢元彦氏である。2005年5月11日号の国際情報誌『SAPIO』では、当時の島根県知事との対談で、「いったいどこの国の新聞なのかと目を疑います」と語っている。井沢氏に改めて話を聞いた。
「あの時、若宮さんの言うとおりにしていたら日韓関係が良くなったかというと、それはないと思います。日本が譲れば韓国の要求がエスカレートしていくのは、慰安婦問題が証明しています。韓国は歴史的には事実と認められないことを主張している。それを認めちゃいけないんですよ」
井沢氏は2009年にも、若宮氏の回想録『闘う社説 朝日新聞論説委員室 2000日の記録』を『SAPIO』で取り上げて批判している。井沢氏がつづける。
「朝日新聞に載った若宮さんの追悼記事(4月30日付)では、若宮さんが『闘いの名にふさわしい論陣を張った』と評価していますが、彼の著書には戦後朝日新聞が北朝鮮を“地上の楽園”と持ち上げていたことに対しての反省が全然書かれていない。権力と闘うジャーナリストであったという評価はともかく、自分の所属する組織の悪については、非常に及び腰であったとしか評価できません」
井沢氏はメディアで何度も若宮氏を追及したが、同氏からは一度も反応がなかったという。
「主筆という立場なら社説を真実の方向に軌道修正することはできたはず。彼の反論を聞くことができなかったのがとても残念です」(井沢氏)
両氏による「言論の闘い」を見てみたかった。
※週刊ポスト2016年5月20日号