【書評】『宮本常一と 土佐源氏の真実』井出幸男・著/梟社/2500円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
宮本常一の『忘れられた日本人』、中でも老博労の性の懺悔録である「土佐源氏」は、なにより、その語り口に圧倒される。宮本常一はこれをあくまでも「民俗誌」、記録として公表したが、他方で、創作説や事実との違いについても繰り返し指摘されてきた。柳田國男の『山の人生』や『遠野物語』もそうだが、「土佐源氏」も一読すれば「文学」だとわかる。「文体」としか言いようのないものがそこにあるのだ。
本書が興味深いのは、宮本自身が「秘密出版」の「性文学」として刊行したと著者が考える『土佐乞食のいろざんげ』を起点に、その性をめぐる「煩悶」の「文学」として「土佐源氏」を捉え直していることだ。
民俗学者の語りの中に意図的に、あるいは不用意に紛れ込んだ「文学」を資料の改変や捏造として批判する後の世代の研究者は少なくない。だが、著者は丁寧に材料を重ねながら「土佐源氏」は「ほかならぬ宮本常一その人に通じる」と、ひどく当たり前のように聞こえるかもしれないが、しかしそうとしか言いようのない結論に至る。
その筋道のたどり方と、その上で「秘密出版」版を介してしか記録され得なかった老博労の心意があるともいう、これも「当たり前」の指摘に共感する。
「虚構」をただ糾弾するだけで済ますことは、必ずしもその背後にある「本質」を掘り起こすことにはなり得ない。本書の誠実さは例外的にそれを可能にしている。そのことに深く感銘を受けた。
黎明期の民俗学者と性や内面の問題は、柳田が「性」を忌避したという糾弾としてではなく、夫人が焼き捨てたとされる柳田の恋愛日記や、折口信夫の「性」を含め、彼らは近代の青年として煩悶し、その発露として「文学」に接近しながら「民俗学」を創り上げてしまった。
著者が言う「文学の魔力」がその根本にあるというのはかつての柳田や折口や宮本の周囲の人々には自明のことで、その自明のことを忘却した時、あの学問は衰退したのだ、と、あの学問を遠く離れて思う。
※週刊ポスト2016年5月27日号