【書評】『奇異譚とユートピア 近代日本驚異〈SF〉小説史』長山靖生著/中央公論新社/5800円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
この本は、江戸後期から明治中期にかけて出版されたSF小説を、おいかけている。いや、SFと言いきってしまうのは、まずいかもしれない。SFという言葉が定着する前にでた、その先駆的な作品をさぐっていると言うべきか。
かつて、SF作家の横田順彌も、明治期の古典SF紹介に、力をつくしてきた。その成果は、『日本SFこてん古典』(全三巻)などに、まとめられている。長山がとりくんだのも、その延長上へ位置づけられる仕事だと言える。
一八世紀末のある文献を見つけた長山は、そのあつかいを横田に問いあわせたらしい。すると、横田から「あとは任せる」という返事が、かえってきた。冒頭にしるされたこのエピソードは、長山のちょっとした自負心をしめしているだろう。自分がその後継者であるという、やや誇らしげな想いもこめられていると思う。
日本の国文学界には、近世や近代をあつかう研究者が、おおぜいいる。だが、長山があつめてならべたような文献へいどむ者は、ほとんどいない。文芸的な価値にこだわる、とりわけ近代文学研究者は、こういう作品群に目をつぶってきた。時代精神のうつりかわりなどが読みとれる好資料なのに、おしいことである。
開化文学や政治小説にくわしい柳田泉は、そんな中にあって例外的な碩学だと評せようか。しかし、そんな柳田の限界も、この本ではいくつか指摘されている。
ただ、長山はドイツ文学の識名章嘉や物理学の豊田彰から、書誌的な情報をもらってもいた。国文学の学界からはなれれば、たがいにたすけあう好事家たちもいるということか。
ヨーロッパのSFを、明治初期の書き手たちが翻案していくくだりは、なかでも興味深い。日本側の受容ぶりから、当時の日本事情がすけて見える。勝手な想像だが、おそらく一九世紀の上海でも、SFの翻訳、翻案は多数こころみられたろう。それらの中国化ぶりと、同時代の日本化をくらべられたらいいのになと、私は思っている。
※週刊ポスト2016年5月27日号